アルベルト・ザッケローニ
元日本代表監督、2010-14年
私が最初に指揮したのは故郷、チェゼナティコで2番目に大きな『アドノバス』というチームでした。
当時の私はまだ若く、アマチュアとしてプレーしていました。
それ以前はプロ選手になることを目指していたのですが、肺の病を患って2年も療養し、フィジカル・コンディションの問題からプロという夢を諦めざるを得ませんでした。1970年のことです(1953年生まれ)。
ある日の午後、私がランニングに出掛けると2つのユースチームがトレーニングをしていました。しかし一方のチームは監督がおらず、途方に暮れていた選手たちから指導を頼まれたのです。
すごく楽しかった。
翌日も監督不在のため、私が指導しました。それから間もなく、私がアドノバスを預かることになったのです。
私はサッカーの監督という職業の魅力に取りつかれていました。
その後、チェゼナティコで最も重要なチーム、レアル・チェゼナティコがアドノバスでの成功に目をつけ、U-16チームの監督として私は迎え入れられました。
加入した1983-84シーズン、レアル・チェゼナティコのトップチームは『セリエC2』(当時はイタリア・リーグの4部)の最下位に沈み、監督を解任しました。しかし、新監督を雇うお金がない。そこで私が、監督就任の要請を受けたのです。しかし、私はコーチング・ライセンスを取得していなかったため、FIGC(イタリア・サッカー協会)の特別許可を受けて指揮しました。
我々は残留を目指して必死に努力しました。そして残りの14試合を6勝4分け4敗で乗り切って残留させ、U-16チームの監督に戻りました。しかし、1984-85シーズンもチームは低迷し、残り3カ月の時点で監督を解任。再び監督に指名された私はチームを残留に導きましたが、大きな失望を味わいました。クラブは若い選手を育てることに興味がなかっただけでなく、私を「穴埋め監督」としか考えていないことを悟ったからです。
「システムは服装と同じ。選手の長所を強調し、欠点を隠すものでなければならない」
1984-85シーズン終了後、セリエA所属歴もある『アスコリ1898』のU-19チームを指揮できる可能性もありましたが、実現しませんでした。しかし、地方クラブから多くのオファーを受け、1985-86シーズンからFYAリッチョーネ(セリエD=当時はイタリア・リーグの5部)を率いることにしました。
FYAリッチョーネでの初シーズン、昇格プレーオフへの出場権を獲得しましたが、決勝で敗れて昇格の夢は潰えました。しかし2年目にはリーグ優勝を果たしました。
セリエDは2回制してことがあります。1986-87シーズンにFYAリッチョーネ、1988-89シーズンには『USバラッカ・ルーゴ』で優勝したのです。USバラッカ・ルーゴでは翌1989-90シーズンに『セリエC2』(当時はイタリア・リーグの4部)を制覇しました。楽しい思い出です。
イタリアに存在するすべてのプロ・カテゴリーで監督を経験した私は実にラッキーだと思います。いろいろなレベルの選手と接し、監督として成長する時間を得られたからです。当然、ミスも経験しましたが、多くのことを学べました。
そして何よりも大切なことを学びました。それは、システムとは「何が何でも監督のサッカー観を押しつけるためにある」のではなく、「選手の能力を最大限まで引き出すためにある」ということです。システムは服装と同じ。選手の長所を強調し、欠点を隠すものでなければならないのです。
柔軟であることも重要です。私は常に、一人ひとりの選手をプロジェクトの中核に据え、トレーニングの中で改善できることを示して各選手を向上させるようにしてきました。
例えば、1980年代後半のイタリアでは、誰もがゾーン・ディフェンスを好んでいたわけではありません。それでも私がゾーン・ディフェンスを採用したのは「選手たちに適している」と確信したからです。しかし、強化部長や会長からは納得を得られませんでした。
「11位に導いて残留させたことでウディネーゼの哲学を変えることに成功した」
ただし、1990年代に入って私のチームが良い結果を残したことを多くの人が記憶してくれていると思います。
1990-91シーズンにはヴェネツィア(1990-93シーズンを指揮)を24年ぶりにセリエCからセリエBに昇格させ、1994-95シーズンには『コセンツァ1914』を率い、(登録費の遅延のため)9ポイントも減点されましたが、残留させました。この1994-95シーズンは本当に大変でした。クラブにはしっかりしたトレーニング場がなく、ゴール裏とランニング・トラックの間でトレーニングしていたのです。
その後に率いたウディネーゼ(1995-98シーズンを指揮)は私の視界を大きく広げてくれたクラブです。ただし、1980年代後半から1990年代前半にかけてのウディネーゼは確たる強化指針も持たず、キャリア終盤の選手を買い漁っていました。そのため、セリエA(イタリア・リーグの1部)とセリエB(イタリア・リーグの2部)を行き来する『ヨーヨー・クラブ』と呼ばれていたのです。
私は少々手荒い手段を講じました。若い選手にチャンスを与え、何人かの選手をコンバートし、ベテラン選手の数人をサブに回したのです。例えば、経験豊富なMFステファノ・デシデリ(ASローマやインテルでプレー)よりもまだ21歳だったジュリアーノ・ジャンニケッダを優先的に起用しました。
オーナーであるポッツォ家は「若返り策」を嫌っていましたが、試合内容と結果での説得を根気強く試みました。そして私にとっての初シーズン、しかも昇格したばかりのチームを11位に導いて残留させたことでウディネーゼの哲学を変えることに成功しました。世界中から若い選手をスカウトするようになったのです。
所属選手の向上を優先する私が、監督としてクラブに獲得を願い出た選手はたった1人。インテル時代、SSラツィオで一緒だったデヤン・スタンコビッチ(上写真)を獲得してもらったときだけです。ですから、ウディネーゼでも所属していた選手の能力を伸ばすことに注力しました。
ジョナサン・バキーニ、ラファエレ・アメトラーノ、マルコ・ザンキ、アモローゾ、モハメド・ガーゴ、スティーブン・アッピアー。彼らはウディネーゼで共に戦い、成長していった選手です。
私の2シーズン目から加わったブラジル出身のアモローゾは技術的に優れた10番タイプの選手でしたが、活動範囲があまりにも狭く、常にマークを背負っているような感じでした。そこで私は、敏捷性を活かすためにも、フォワードでのプレーを勧めました。説得にはとても苦労しました。しかし、(オリバー・ビアホフが抜けて)センターフォワードに移った彼はセリエA(1998-99シーズン)とブンデスリーガ(ドルトムント時代の2001-02シーズン)で得点王になっています。
翻訳:The Coaches’ Voice JAPAN 編集部