アレックス・コヴェロ
サンノゼ・アースクエイク(暫定監督):2022
「あっ」という間の出来事でした。
2017年のことです(コヴェロは1978年5月19日スペイン生まれ)。タイのオリンピック代表チームに加わることを決めようとしていた時、『サンノゼ・アースクエイクス』からのオファーが舞い込んできました。
それから数週間後、私たちは米国にいました。「私たち」と言ったのは、家族全員で移住したからです。妻のローラ、そして2人の娘、カンデラとヒメナはコーチという職業の宿命、つまり「住む場所が決まっていない」ことを理解している特別な人たちなのです。
MLS(メジャー・リーグ・サッカー)で働くことになりましたが、役職はコーチや監督ではありませんでした。任されたのはトレーニング・メソッドのダイレクター。つまり、裏方としてチームのトレーニング方法を構築する役割でした。
役職を聞いた瞬間、実はちょっと迷いました。しかし、少し考えて決意しました。「米国に行ってMSLで働くのは娘たちに英語を学ばせるいい機会だ」と好意的に考えたのです。
芝生の上で選手たちと毎日、練習できないことへの不安よりも前向きに捉えることを重視しました。また、「自分の力を信用してくれたのだから、断るべきではない」とも思いました。
私は、個人的な関係を活かすことでキャリアのほとんどを築いてきました。プロの選手として優れたプロフィールを持たない者が指導者として生き残るには、自分を改善し、成長させてくれる人を見つけられるかどうかにかかっています。
しかし、トップリーグの監督を経験すると世界は一変します。サンノゼのトップチームの監督を引き受けてから、それを実感しています。ある種の特殊なサークルに入るようなものかもしれません。例えば、以前は自分から履歴書を送らないと仕事を得られなかったのに、突然、オファーの電話がかかってくるようになるからです。
「サンマリノはサッカーのコーチとして働くのにはユニークな場所です。例えば、サンマリノにはたった2つしかサッカー場がありません」
我々はショーケースにいるようなものなのでしょう。一流チームの監督やコーチになれば、日々の行動やチームのプレー、そして戦績を多くの人に見られることになります。目立つ存在になるのです。
しかし、その立場に至るには日々、積み重ねていくしかありません。
サンノゼからオファーを受けることになるきっかけは、カリフォルニアからはるか遠くの場所、しかも何年も前のことでした。
RCDエスパニョールのメソッド部門で2008年から2012年まで従事したあと、2013年にサンマリノ共和国に渡ってコーチとして働きました。
当時の私には「他国のサッカーに触れてみたい」という願望がありました。ちょうど、友人の紹介で『サンマリノ・カルチョ』に入団する機会を得られたのです(上写真)。サンマリノ共和国にあるトップクラスのチームではありますが、当時は『レガ・プロ』(イタリア・リーグの3部)に所属していました。
サンマリノ・カルチョでの役職はアシスタントコーチ。その頃に私が持っていた資格では監督にはなれなかったからです。
監督になるため、私はイタリア・サッカー協会のライセンスコースを受講。資格を得ただけでなく、ロベルト・デ・ゼルビ監督(現在はブライトン)やMLSの『バンクーバー・ホワイトキャップス』で監督を務めるヴァンニ・サルティーニなど、有能なコーチたちと知り合えたのも大きな財産です。そして監督の就任条件を満たした私は2年目から監督となりました。
サンマリノ共和国に行ったことがある人は多くないでしょう。北イタリアにある人口3万人強の小国(面積は世田谷区と同等)はサッカーのコーチとして働くのにはユニークな場所です。例えば、サンマリノ共和国にはたった2つしかサッカー場がありません。
「アグレッシブなスタイルを掲げ、サンノゼというクラブに合わせたメソッドを構築し始めました。クラブの土台からトップの戦い方を作り上げようとしたのです」
そのうちの1つで我々は週に1回トレーニング。天然芝と人工芝のハイブリッドなのですが、昔ながらの人工芝であり、まるでスケートリンクのように滑るピッチでした。それ以外の練習は、私が住んでいたイタリアのチェゼーナという街(サンマリノから40キロ)で実施しました。
週末には、あらゆる面で我々を上回る相手との試合が待っています。
サンマリノでは、異なる種類のサッカーを知る機会を得ただけではなく、有望な選手を含むグループのマネジメント力も試されました。ASローマやSSCナポリで活躍することになるアマドゥ・ディアワラ(ギニア代表)、インテルに引き抜かれるステファノ・センシ(イタリア代表)、現在はスペインのCAオサスナで活躍するファン・クルスなど、大物選手も所属していたからです。
サンマリノで指揮している時、ASローマのコーチングスタッフからユースチームの指導スタッフになる話をもらったこともあります。結局、その話はまとまりませんでしたが、ASローマの関係者、特にフランチェスコ・ヴァローネ(現在はASローマのスカウト部長)とジェシー・フィオラネッリとは連絡を取り合い続けました。
当時、フランチェスコとジェシーは、ASローマでスポーツマネジメントの一翼を担っていました。その後、フランチェスコはモンチこと、ラモン・ロドリゲス・ベルデホ(現在はセビージャFCのスポーツディレクター)と共にASローマのトップチームで働き、ジェシーは2017年にサンノゼへGKコーチとして移籍。すると、ジェシーから連絡があり、クラブのメソッド部門で働かないかとオファーされたのです。
彼は、私の目指すプレー・スタイルとクラブの求めているものが合致すると考えていました。大まかに言えば、私が好きなのはアグレッシブなサッカー。ボール・ポゼッション率で圧倒した上で相手を粉砕したいのです。
アグレッシブなスタイルを掲げ、サンノゼというクラブに合わせたメソッドを構築し始めました。クラブの土台からトップの戦い方を作り上げようとしたのです。
何度も何度もミーティングを重ね、何時間ものデスクワークを通じてプロセスを確立させました。次の段階では、ゲーム・モデルを作り、目指すモデルをピッチ上で表現するためのトレーニングを組み立てることになります。
「我々のプレー・モデルでは前からの積極的なプレッシングが基本。マンマークという項目はありませんでした」
日々のトレーニング・セッションは、プレー・モデルを補完するために行なうのです。しかも、どのようなトレーニングするのかを具体化し、年間計画も立てなければいけません。そうしたプランをすべてのカテゴリー別に作成していきます。
巨大なパズルを完成させる作業と言ってもいいでしょう。
メソッドを浸透させる上で納得させなければいけないのは選手だけではありません。コーチ陣も納得させなければなりません。そうした過程を通じてサンノゼのコーチたちも成長してくれました。私が2017年に着任した時にアカデミーにいた指導者たちの多くが、後年、トップチームで働くほどの実力を備えてくれたのです。
コーチたちにメソッドを浸透させるプロセスで焦りは禁物。多くの時間と忍耐が必要とされます。私たちが「どのようなゲームをしたい」をコーチたちにしっかりと理解してもらうためには欠かせないことです。
私たちは、たくさんのビデオを使うことで理解を深めていきました。具体的には、我々が求めるプレーを実践しているチームの映像を見てもらいながら解説を加えることにしました。教材にしたのは、リバプールFCやマンチェスター・シティ、2017年頃のFCバルセロナ、そしてペップ・グアルディオラ率いるバイエルン・ミュンヘンの映像です。
もちろん、「見せて終わり」という一方通行のプロセスは良くありません。我々とコーチ陣のコミュニケーションも順応性の高いものでなければいけないのです。
「マティアスがトップチームのトレーニングに招いてくれることもありました。その時は彼のトレーニングをしっかりと観察し、彼のメソッドを吸収しようと心がけたのものです」
2018年からサンノゼのトップを指揮することになった元アルゼンチン代表のマティアス・アルメイダ(下写真)はマルセロ・ビエルサ(アルゼンチン代表の元監督)の信奉者。ビエルサと同じく、マンマークを基本とした守備戦術を導入しました。ただし、我々のプレー・モデルでは前からの積極的なプレッシングが基本。マンマークという項目はありませんでしたが、監督の意向を無視するわけがありません。その点、順応性の高いプレー・モデルにしていたことが奏功しました。
ダイレクターながら現場に私が立つことがあったのも良かったと感じています。
メソッド部門所属の私はトレーニング現場から離れていましたが、幸いにも現場に立ってトレーニングを手伝った時期が2回もあったのです。
1回目は2017年のこと。クリス・ライチ(現在はサンノゼ・アースクエイクのダイレクター)が暫定監督になった時にアシスタントコーチを兼任することで指導現場に立ちました。続く2018年にもスティーブ・ラルストン暫定監督(現在はサンノゼ・アースクエイクのアシスタントコーチ)の下でアシスタントを経験しています。
マティアスの着任後、クラブがセカンドチーム(サンノゼ・アースクエイクⅡ)を創設。マティアスによって私は新チームの監督に任命されました。試合結果についてトップチームほどのプレッシャーを受けなかったこと、そしてメソッド部門を統括していたことでスムーズに任務を遂行できました。地元出身の選手をアカデミーで成長させ、さらにセカンドチームからトップチームへと送り込むという大切な役割を果たせました。
時々、マティアスはトップチームのトレーニングに招いてくれました。その時は彼のトレーニングをしっかりと観察し、彼のメソッドを吸収しようと心がけたのものです。
マティアスはとても親しみやすく、一緒に働きやすい人物でした。サッカー界でとても多くのことを成し遂げていたにもかかわらず、非常に謙虚でもありました。
しかし、2022年4月にマティアスは離任。一緒の時間を彼と過ごしていたことがその時、活かせることになります。
「青天の霹靂でしたが、とてもスムーズに引き継ぐことができました。うまく順応してくれた選手たちにも感謝しています」
2022シーズンが2022年の2月に開幕すると、7試合で3分け4敗と低迷。責任を感じたマティアスは辞任し、暫定監督として私がチームを預かることになったのです。
青天の霹靂でしたが、とてもスムーズに引き継ぐことができました。うまく順応してくれた選手たちにも感謝しています。多くの選手が、私のことを知っていたこと、そして私の人柄やトレーニングで私が求めることを理解していたこともプラスに働いたのでしょう。
コーチングスタッフとの仕事を私は心から楽しんでいました。支えてくれたのは、米国で最も偉大な選手の一人であり、2021年に引退したばかりのクリス・ウォンドロウスキー、スティーブ・ラルストンとルシアーノ・ファスコ、そしてスペインのカディスでGKとして活躍したチューボ・フェルナンデスという面々です。
チームの状況を大きく好転させたとは言えません(最終順位は西地区の最下位)。しかしたくさんのことを改善できたと感じていますし、優勝することになるロサンゼルスFC(◯2-1)にもシーズン後半には勝てました。
ロサンゼルスFCなどとの好試合では、選手たちが私のスタイルに順応してくれたこと、そして私が頭の中で描いていたサッカーを実現してくれていることを実感できました。
そうした試合を目にできるのは信じられない体験でしたし、疑いの余地もないほど素晴らしい経験でした。
翻訳:The Coaches’ Voice JAPAN編集部