ディエゴ・シメオネ
アトレティコ・マドリード, 2011〜現在
一番下の息子ジュリアーノはクロワッサンをミルクにつけ、一口食べてから僕の顔を見た。
「でも、パパがいい結果を残すとしばらく戻って来られないでしょ」
その日のことは今でもはっきりと覚えている。
アトレティコ・マドリードからの電話で全てが変わったからだ。監督就任のオファーを告げられた。
私はジュリアーノと時間を過ごすためアルゼンチン、ブエノスアイレス州の港湾都市マル・デル・プラタにいた。お店でコーヒー(息子はミルク)とクロワッサンを食べていた。
「聞いてくれ、アトレティコ・マドリードからオファーがきた。正直どうしたらいいのか分からないんだ」
ジュリアーノは少し考え込み、私に言った。
「ファルカオの監督になるの? メッシやロナウドと対戦するの?」
8歳の息子は、次々と私に聞いてきた。一息つき、クロワッサンをミルクにつけ、一口食べてから私にこう言った。「パパがいい結果を残すとしばらく戻って来られないでしょ」
その時、二つの感情が込み上げてきた。 結果を残したい。しかし、結果を残せば子供たちの成長が見られない。
私が監督を志すようになったのは27か28歳の頃だ。(当時、ラツィオの選手だった)私はトレーニングから帰宅すると、ファイルを片手に持って監督のように振る舞った。
まるで子供のように「監督ごっこ」をしたのだ。チームの練習を見て分析したり、次の試合を想像しながら必要なことを考えたり、そして手書きが好きな私は、大量のメモや資料で机が埋もれていくシーンを想像した。
想像が広がり、とても興奮したのを覚えている。
私は、コーチが最も情熱を持てるのは選手の成長を見ることだと思う。もちろん、すべての監督が優勝したいと思うだろう。だが私は、下のカテゴリーから上がってきたコケ(ホルヘ・レスレクシオン・メロディオ)、ルーカス・エルナンデス、アンヘル・コレアたちがアトレティコ・マドリードで意識の高いプロフェショナルに成長する姿を見ることで優勝に匹敵する喜びを得られる。
「私の性格を一言でいうならば、『とても頑固』。手に入れると決めたものは必ず手に入れたいし、必死に追い求められる」
現役を退いて監督になろうと思った頃、私はアルゼンチンに帰国してラシン・クラブというチームで現役最後の時間を過ごしていた。 ラシン・クラブからは監督就任のオファーを2度受けていたが、タイミングを見計らって(オファーを)断っていた。
3度目にオファーされた時、受けることにした。
その時、ラシン・クラブの状況はかなり悪かった。それでも私はうまくやれると信じていた。
現役時代に共にプレーした仲間たちがいたからだ。
だが、試練はすぐに訪れた。
監督として指揮するのはいつも大変だが、そのときは居心地が良くなるまでとても時間がかかった。
ゴールを一つも奪えず、スタートから3連敗を喫したからだ。
チームを緊張が支配し、乗り越えなければならない問題点がたくさんあった。だが、それを皆で乗り越え、本当の意味で自分たちの信念に自信を持つことができ、強くなった。
私の性格を一言でいうならば、「とても頑固」。手に入れると決めたものは必ず手に入れたいし、必死に追い求められる。
だから私はアトレティコ・マドリードに戻って来た。
2003年にアトレティコ・マドリードに復帰した私は2005年までプレーしたが、あまりいい思い出はない。2シーズンで36試合出場にとどまり、貢献できなかったからだ。
しかも、 私の存在が監督をナーバスにさせているとも感じていた。 なぜか? 35歳になっていた私は経験を重ねたベテランであり、そういうベテランの存在は知らず知らずのうちにメディア、ファン、全ての人々に影響を与えてしまうからだ。
だが私は、アトレティコ・マドリードを去ったその日から戻る日の準備を開始していた。
現役最後の時間を過ごす場所も、初めて監督となる場所もアルゼンチンになると予想していた。しかし 同時に、アトレティコ・マドリードに監督として戻るだろうと感じていた。だから、その日のための準備を怠らなかった。
2011年12月、監督として戻る日が訪れたが、選手たちとの初ミーティングで話すことを特に決めていかなかった。昔から入念に考えてから話すタイプではない。なるべく自然体でいたいし、その時に感じたことを話したいと思っているからだ。
「チームにとって、ヨーロッパリーグ優勝はさらに高みを目指すきっかけと自信になった。」
約5年半、アトレティコ・マドリードでプレーしたことは大きなメリットだった。ホペイロ、社員、会長、ホームスタジアムの『エスタディオ・ビセンテ・カルデロン』の客席の配置、座席の持ち主を全て把握し、熟知していたからだ。求められていることに向かって全ての知識を活かせた。
アトレティコ・マドリードに求められていたのは野心と競争心。具体的には、粘り強いディフェンスとカウンターアタックを仕掛けられること、強豪チームにも対抗し得るチームになることだ。
その目標に向かってチームをつくり始めた。
だが、私がチームに合流した時、クラブは好調とは言い難い状態にあった。ラ・リーガで10位、『コパ・デル・レイ』もすでに敗退していた。それでも流れを変えられると私は確信していた。
関わっている人々が強い絆で結ばれていたからだ。情熱に勝るものはない。それがサッカーだ。
就任5カ月後には新たな時代の幕開けが訪れた。『ヨーロッパリーグ』での優勝により、さらなる上を目指す大きなきっかけと自信をチームは得たからだ。
当時のスペイン・リーグでは、レアル・マドリードやFCバルセロナに勝つのは不可能に近いとされていた。ワールドクラスの選手を揃え、10年近くも優勝を分け合ってきた2強だからだ。
だが努力、継続、忍耐、そして何よりも素晴らしい選手たちにより私たちは不可能を可能にした。
どうやって成し遂げたか? それは、信じ続けたからだ。 監督就任3年目に大きなチャンスが訪れた。
「サッカー界ではどこかで誰かが働いているため、立ち止まって喜びに浸る時間などない」
2013-14シーズン、レアル・マドリードが脱落し、優勝争いはFCバルセロナとの一騎打ちとなった。
最終節、アトレティコ・マドリードはバルセロナにある『カンプ・ノウ』での直接対決に臨んだ。アウェイだったが、引き分け以上が優勝の条件。
自分たちらしさを発揮し、不可能なタスクをこなす必要があった。
1-1で試合終了のホイッスルを聞くと、私とアシスタントだったヘルマン・ブルゴスから笑みがこぼれ落ちた。優勝できると信じていたが、いざ優勝を手にしたら、ただただうれしかった。もっとも、その後は色々な感情がこみ上げてきたため、言葉に表すのは本当に難しい。
ただし、スペイン・サッカーの歴史に残るシーズンであったことは間違いない。
サッカー界ではどこかで誰かが働いているため、立ち止まって喜びに浸る時間などない。自分が寝ている間、世界の反対側では誰かが働いているのだ。色々な場所に人を配置し、時差を利用しながら24時間働き続けることはできないだろうかと考えてしまう。
サッカー界はなかなか大変な市場だ。
アトレティコ・マドリードは150億や200億を費やして選手を獲得できるクラブではないため、工夫しなければならない。どこのポジションを強化し、どうすればチームがより良くなるかを常に考えなければならないのだ。
そして、計画に沿って毎年、動き続けなければならない。
チームを良くするための選手と契約を結ぶためには、一生懸命考え、しかも失敗は決して許されない。
大変な話に聞こえるだろうが、実際に大変な作業だ。お祈りをする時、私はエネルギーをくださいと頼む。気持ちを落ち着かせるエネルギー、感じたことを表現するエネルギー、あらゆるエネルギー……。継続には多大なエネルギーを要する。
「13年も関わり続けたアトレティコは私の人生の一部である」
選手時代の影響か、私が監督として求めるサッカーにイタリア・サッカーやスペイン・サッカーの影響を感じ取る人がいるようだ。そして、「私のサッカーは守備的だ」と言われることも少なくない。
だが、選手としてプレーすることと監督業は全く別物だ。
チームの求めていることを理解しながらも、選手の頃はあくまでも自分自身のことを考える。監督はその真逆だ。監督は全体像をつかめないといけない。ライバルの力を最小限に抑え、相手の強みを消しながら自分たちらしさを出すためだ。
しかも監督は弱気な姿を見せてはいけない。シーズンを通じて選手から信頼を得続けるためには、適切なタイミングに適切な言葉を選手にかけなければならないからだ。
適切な声かけにはフラットな思考も必要だ。私はよく話を聞く。よく質問をする。そして最終的に皆にとって良いと判断した行動を選ぶ。
マル・デル・プラタでジュリアーノと会話した時と同じだ。「どうしたらいいか分からない」から話を聞き、質問する。
ジュリアーノの会話から7年がすぎ、選手と監督として13年も関わり続けたアトレティコは私の人生の一部である。
私は不可能に近いチャレンジを13年も続けたことになる。
翻訳:澤邉くるみ