ダビド・ベットーニ
ヘッドコーチ(レアル・マドリード)、2016-2018&2019-2021
「私がASカンヌのアカデミーに入ったのは16歳の時でした。素晴らしいレベルの選手ばかりでしたが、その中でも圧倒的な輝きを放つ選手がいました。それがジズーです」
1971年生まれの私と1972年生まれのジズー(ジネディーヌ・ジダン)はすぐに友達になりました。偶然の出会いでしたが、友情の絆は日々強くなっていきました。地方から来た選手たちが多く、ジズーはマルセイユ、私はサンプリエストという村の出身。それぞれのホスト・ファミリーと暮らしていました。境遇が似ていたからかもしれません。
ジズーの家にはウォッシュレットがありました。恐らく、彼の家だけでした。トレーニング後、足にできたマメをケアするために彼の家に入り浸ったこともあります。
つまり私が言いたいのは、一緒にいる時間がとても長かったということです(笑)。
1992年にジズーがジロンダン・ボルドーへ移籍、その後、我々は大きく異なるキャリアを歩みます。しかし、 私たちの関係が途切れることはありませんでした。
私のキャリアは、彼よりかなり地味でした。フランス2部のクラブを渡り歩き、1996年にイタリア3部の『アヴェッツァーノ・カルチョ』へたどり着きました。くしくも同じ年、スーパースターとなっていたジズーがユベントスへ加わったのです。
「2013年にジズーに声をかけられ、レアル・マドリードのスカウティング部門の一員となりました」
直接会うこともありましたが、多くの場合は電話で連絡を取り合い、お互いの近況を報告していました。ジズーの言葉を通して聞くユベントスの監督たちの話はとても興味深いものでした。
そして1994-95シーズンから彼はレアル・マドリードでプレー。一方の私は、相変わらず地味なクラブを渡り歩き、2003-04シーズンを古巣のASカンヌで過ごして引退を決めました。
その頃にはすでに、監督の仕事、そしてマネジメント全般に興味を持つようになっていました。
ジズーは私よりも2年長くプレーし、2006年のドイツ・ワールドカップを最後に引退しました。
先に引退した私は指導者の道に進んでいました。
当時、私に電話してきた彼は、新しい経験、若い選手たちとの仕事について聞いてきました。そして、フットボールのトレーニングやコンセプトについて何度も話しました。
そんな会話を重ねていく中で、少しずつ彼の中で「あるアイデア」が浮かんでいったのでしょう。
「自分にも監督を務められるのではないか?」と。
引退した彼は、私を何度かマドリードに招待し、互いの将来を話し合いました。そして、彼が指導者になることを決意した時、私も彼のプロジェクトに加わることとなったのです。
そして2013年、彼はカルロ・アンチェロッティ率いるレアル・マドリードのヘッドコーチに就任。私は「時間をかけてクラブのことを知ってほしい」という彼の言葉もあり、 スカウティング部門の一員として対戦相手のレポートを書くことになりました。
1年後の2014-15シーズン、ジズーが監督となります。レアル・マドリードのリザーブチームである『レアル・マドリード・カスティージャ』の監督に就任した彼は、約束通りに私をヘッドコーチに任命しました。もちろん、このオファーを断ることなどありません。
恐らく、カスティージャでの時間は彼にとって重要なものになったでしょう。
彼はフットボールを熟知し、ロッカールームのこと、選手のこともよく分かっていました。一方で、チーム・マネジメントにおいては彼を助けられる私のような人間が必要であったと思います。プレー原則に基づき、しかも戦術的な要素が含まれたトレーニング・セッションを正しい順序でオーガナイズするのは簡単ではないからです。
ただし、とてもクレバーなジズーはあっという間にそうしたノウハウを習得して発展させていきました。しかも彼はアイデアを出すのが得意。また、自分の主張をしっかりと持っていますが、「より良い」と思うアイデアがあれば、それに変更する柔軟性も持ち合わせています。
「もし我々が指揮を執るとなったらどうなると思う? フロレンティーノ・ペレスがジズーにレアル・マドリードの指揮を託すことを決めた時、彼は私にこう言いました」
カスティージャでの1年目は「2人にとっての学びの場」とお互いに理解していました。どれほど優秀な監督やコーチになる人物だとしても、そうした時間は必要なのです。そして2年目のシーズンでは、素晴らしい成績を残すことができました。選手たちが本当に良いプレーをしてくれたからです。
しかしながら、2015ー16シーズンのレアル・マドリードはあまり良いシーズンを送れていませんでした。そのため、「ジダンがレアル・マドリードの次期監督候補だ」という見出しがメディアに躍りました。
ただし彼は、この手の話題を無視していました。カスティージャで最高の結果を残すことに100パーセント集中するためです。
しかし、2016年の始めにすべてが変わります。
前任者(ラファエル・ベニテス)が去り、フロレンティーノ・ペレス会長から「次期指揮官にジズーを考えている」と明かされたからです。
ジズーはすぐに私に電話してきて言いました。
「もし我々が指揮を執ることになったらどうなると思う?」
私は、「君が決めることだよ」と言って続けました。
「俺はついていくだけだよ。レアル・マドリードの監督になっても君を信頼し続けるし、でき得るすべてのサポートを約束する」
確かに、レアル・マドリードでは大きなプレッシャーを受けますし、徹底的に結果を求められます。しかし、結局はフットボール。我々はフットボールに対して情熱を持っていますし、エネルギーもあり、最高の選手たちとの仕事も待っていました。
ジズーは挑戦を引き受けました。
レアル・マドリードのロッカールームに初めて入った時、偉大な選手との出会いに感動しました。
彼はすぐに同じ言葉(同じサッカー観)で会話を始めました。私たちは選手たちと時間を過ごし、選手との接し方を心得ているジズーはあっという間にグループを掌握しました(1月9日のデポルティボ・ラ・コルーニャとの初戦は5-0)。
翻訳:石川桂