ルイス・イスラス
ドラドス・デ・シナオラ(アシスタントコーチ):2018-2019
偉大な選手が偉大な監督になるわけではないーー。ディエゴはこの言葉の典型例として扱われますが、誤りです。彼は、疑いなく偉大な監督でした。
故ディエゴ・マラドーナ(1960年10月30日-2020年11月25日)が「一緒に働こう」と最初の連絡をくれたのは2011年。彼がアル・ワスルFC(UAE)を率いていた時でした(2011年〜12年に指揮)。ディエゴは良い友人でしたから、「ノー」と言うのは難しかったのですが、あの時は断りました(イスラスは1965年12月22日生まれ)。
理由はいたってシンプル。アルゼンチンのデポルティーボ・エスパニョールで私が働いていたからです。契約を自ら破棄してチームを去るのは私の信条に反することでした。
2017年に再度、彼からコンタクトがあり、アル・フジャイラSC(UAEの2部リーグ)で共に働くことにしました。ディエゴは私に、プランニング、分析、トレーニング構築を担当するように求めました。すべて、私の得意分野です。
私たちは同じような考えを持ち、プレー・アイデアについてもよく話し合いました。アグレッシブで攻撃的、しかもプレッシャーを相手に常に与えるチームにしたい、と私たちはいつも同じ結論に達していました。だからこそ、私たちは自分たちのやり方に確信を持てたのです。
戦術についても多くのことを話し合いました。ただ、あまりにも多くの意見を取り入れすぎないようにしました。ビデオ分析官やスタッフの意見も聞きますが、基本的には、私と彼の間で話して決めました。
彼はピッチ上でとても幸せそうでした。トレーニングを楽しんでいました。彼は実な濃密な時間を生きていましたし、私たちは素晴らしいコンビだったと思います。
「彼は指導者としても一流でした。グループを率いる特別な才能を持っていました」
ディエゴは唯一無二の選手。誰よりも優れていました。そして、監督としても人とは違う何かを持っていました。彼と同じような存在感を選手に対して発揮できる人はいないでしょう。ディエゴは選手に、アドレナリン、熱意、自信、そして自由を与えました。自由は彼自身のベースです。
チーム内では、スタッフも含めて対戦相手の分析を綿密に行ないました。一方、選手とのミーティングでディエゴが発する言葉はすべて心からのものでした。私が言葉で説明できるようなものではありません。瞬間的に飛び出した言葉ですし、準備されていたものでもありません。選手にすれば、ディエゴが目の前に立って話してくれるだけでとても心強かったはずです。
彼はボールを常に使うトレーニングを好みました。その練習に参加してボールを共に蹴り、グループの完成度を高めていきました。彼がボールを蹴るたびに、正確さ、絶妙さ、そしていとも簡単にプレーすることに選手たちは驚き、心酔していきました。
ただし、私が何より強調したいのは彼の人間性です。謙虚で、シンプル。得点した時、選手と抱き合って喜んでいました。
「私たちが勝利するたびに、メディアは『ディエゴのチームが勝った』と言いましたが、そのたびに彼は『いやいや、ルイスとディエゴのチームだ』と言ってくれました」
アル・フライジャSC(UAE)での日々は、新しい考え方、生き方、歴史との出会いを我々に与えてくれました。彼らは1日に5回祈り、選手たちもそうします。しかし、アラビア語は習得がとても難しい。幸いなことに、私の英語はなかなかのレベルでした。会話を通じて自分の居場所を見つけられれば、UAEはファンタスティックな国です。
時間とともに、トレーニングから選手は学び、ポテンシャルを発揮し始めました。日々のトレーニングが試合に反映されることを理解し、選手が練習に熱心に取り組んでくれたからです。
私たちは『リトル・アルゼンチン』を作りました。ディエゴはガールフレンドと一緒にいました。私は、私よりも1カ月遅れて入国した家族と共にいました。
海外で働く時はいつもそうしています。いろいろなことが落ち着いてから家族と合流したほうがいいと思うからです。
リトル・アルゼンチンにはだいたい5、6人が集まり、昼食や夕食を共にしました。金曜日に試合が開催されることも多かったため、ディエゴや仲間と一緒に土日を過ごすことも少なくありませんでした。
「ディエゴがよく言っていたことがあります。それは、アルゼンチン代表の監督を再び務めたいというものでした」
ディエゴはスポーツ全般に興味を持っていましたが、特に熱中していたのがボクシング。彼はボクシングをよく理解していました。サンドバックを吊るし、自宅でもトレーニングしていました。テレビでもボクシングを頻繁に観戦していました。
しかし、100%、いやそれ以上に自身を捧げられたのはフットボールでした。そんな彼と働き、指導者として私は大きく成長できました。
私は指導をしているときに幸せを感じます。指導こそ、私の人生であり、アル・フジャイラSCはすべてを与えてくれました。私たちは満ち足りた日々を過ごし、とても幸せでした。
2018年4月にUAEでの生活に終止符を打つと、ディエゴはベラルーシへ、私はアルゼンチンへ向かいました。
落ち着いてきたある日、彼から電話がかかってきました。
「ルイス、これは会長からの言葉だ。私は今、ディナモ・ブレストの会長であり、君は監督になる」
ディエゴがクラブの会長になったのです!
私はすぐに「イエス」と答えて、チームの試合映像をチェックし始めました。そしてスーツケースに必要な物を入れ、いざ出発というその時、ドラドス・デ・シナオラ(メキシコの2部リーグ)からのオファーが舞い込んできたのです。
私にとってメキシコはベラルーシよりも受け入れやすい選択肢でした。なぜなら、メキシコのフットボール事情に関して熟知していたからです。現役時代にプレーしたことがありましたし、引退後には指導も経験しました。アルゼンチンからのアクセスも容易です。
我々はメキシコへ向かうことにしました。たった1日で真冬のベラルーシの冬服から真夏のメキシコの夏服へと着替えたのです。
もっとも、シナオラ(2018年9月〜19年6月までマラドーナは指揮)への適応は簡単ではありませんでした。ディエゴの監督としての力量が試される場所でした。フットボールは世界中どこでも同じだと思われるかもしれませんが、フットボールのスタイルや人々の価値観は国や地域によって異なります。外国人は適応しなければなりません。
「選手とのミーティングでディエゴが発する言葉はすべて心からのものでした。私が言葉で説明できるようなものではありません」
メキシコでは、ディエゴがいるだけで「すべてが100倍」になりました。通常のトレーニングにもかかわらず、毎回、1万人から1万5000もの人々がトレーニング場に集まるのです。しかし私が感じたのは耐えられないようなプレッシャーではなく、すべてが私の助けとなりました。
想像してみてください。
確かに、注目がプレッシャーになることもあるでしょう。常に見られているからです。しかし、注目されることは私にとっては大きな励みになりました。
ディエゴと行動を共にするのは、フットボールに対して最大限の努力を実行し、批判やプレッシャーに適応しなければならないことを意味します。周囲の人々はディエゴの活躍を期待しますが、毎回、成功できるわけではないからです。
ドラドスを率いている時、1部昇格プレーオフの決勝で敗れると、ディエゴはまず選手を労い、讃えました。
しかし、飛行機で帰途につくと、悔しさが込み上げてきました。本当に悔しい気持ちになりましたが、選手には言えません。彼らはシーズンを通じて本当に素晴らしい仕事をしてくれたからです。
アル・フジャイラSCと同様に、1部昇格という結果を残すことはできませんでした。しかし、ディエゴは素晴らしい仕事をしたと思います。
ディエゴがよく言っていたことがあります。それは、アルゼンチン代表の監督を再び務めたいというものでした(2008〜10年までマラドーナは指揮)。その願いは叶いませんでしたが、代表を再び率いる能力が彼にあり、彼が監督就任の覚悟を持っていたのは間違いありません。
「グレッシブで攻撃的、しかもプレッシャーを相手に常に与えるチームにしたい、と私たちはいつも同じ結論に達していました」
現在のアルゼンチン代表は、リオネル・スカローニ監督と素晴らしいスタッフに率いられて常に100%を出し切れるチームになっています。スカローニのチームは見ていて本当に楽しい。
アルゼンチン代表以外にもディエゴには夢のクラブが2つありました。
SSCナポリ(1984-91シーズンにプレー)については、素晴らしさばかりを口にしていました。美しい思い出がたくさんあり、SSCナポリの監督就任を夢見ていたようでした。もう1つは幼い頃から熱狂的なサポーターだったボカ・ジュニアーズ(1881-82と1995-97にプレー)。彼はいつも、2つのクラブについて話していました。
私にも、叶えたかった夢があります。初めて明かす秘密です。
昔、CAインデペンディエンテ(アルゼンチン)のダイレクターと私の去就について話していた時のこと。私は言いました。
「クラブを率いさせてもらうことにはとても興味があります。でも、ディエゴと一緒にやりたい」
私はその可能性を探りました。マラドーナは、『エル・ロホ』(インデペンディエンテの愛称)の素晴らしさを認めていましたから、オファーがあれば喜んで受け入れてくれたでしょう。
私たちは選手、そして指導者として多くの時間を共有しました。とりわけ指導者としては濃密な時間を過ごしました。自分自身の成長にもつながったと思います。我々はチームを機能させるために多くの仕事に取り組み、方法論を確立し、お互いに要求してきました。
「メキシコでは、ディエゴがいるだけで『すべてが100倍』になりました。通常のトレーニングにもかかわらず、毎回、1万人から1万5000もの人々がトレーニング場に集まるのです」
フットボール選手としてのディエゴと一緒にプレーできたことは大きな喜びです。彼はたった一人で相手の守備組織を破壊できる選手。超一流でした。1986年には素晴らしい仲間と共に世界一になるチャンスをもらいました(メキシコ・ワールドカップで優勝。イスラスは出場できなかったが、優勝メンバー)。
彼は指導者としても一流でした。グループを率いる特別な才能を持っていました。そして私たちは選手の可能性を引き出し、サポートできるように努めました。つまり、チームとして最大限のパフォーマンスを発揮できるようにしていたのです。
私たちが勝利するたびに、メディアは「ディエゴのチームが勝った」と言いましたが、そのたびに彼は「いやいや、ルイスとディエゴのチームだ」と言ってくれました。
本当に彼は偉大でした。
2019年、私たちは別々の道を歩むことになります。仲を割くような出来事があったわけではありません。シンプルな話。お互いがプロフェッショナルとして決断したのです。
私にはボリビアやアルゼンチンでの監督経験があり、自分のコーチングスタッフがいました。ドラドスでの仕事が終わった時、自分のコーチングスタッフと共に監督を務めるつもりであることをディエゴに説明しました。
ちょうどその時、彼にはアルゼンチンのヒムナシア・ラ・プラタから、私にはパラグアイのソル・デ・アメリカからオファーが舞い込んだのです。
「今でも彼の名前を見ると、喜び、尊敬、賞賛の念が溢れてきます」
別々の道を歩むことになりましたが、お互いに気持ち良く、最高の形で終われました。しっかりと話し合えたからです。
私はパラグアイから、マラドーナのヒムナシアが成功を収めることを祈っていました。同時に、ディエゴが私のチームの結果を気にしてくれていることも分かっていました。
画面越しの彼は、どのスタジアムでも、ヒジかけのある大きなイスに座っていました。彼に対して敬意が払われているのを感じました。
彼と共に過ごしたすべての時間が、私にとって決して忘れられないもの。ドラドスですべてがうまくいった試合のあと、彼とハイタッチした瞬間もそう。
ディエゴは私を見て言いました。
「ルイス、君の目を通じて私はフットボールを見ている」
今でも、思い出すと鳥肌が立ちます。
彼は物事をシンプルに、しかし美しく、そしてパワフルに伝えます。
私はディエゴを愛していますし、決して忘れません。彼は今、彼の母親や父親と一緒に穏やかな時間を過ごしていることでしょう。
今でも彼の名前を見ると、喜び、尊敬、賞賛の念が溢れてきます。
ありがとう、ディエゴ。