グラハム・アーノルド
オーストラリア代表監督:2018-現在
私の監督としてのキャリアは、通常のキャリアとは逆から始まりました。
私がキャリアの階段を上がり、知名度を上げたのは『サッカールーズ』(オーストラリア代表の愛称)を率いていたフランク・ファリーナのアシスタントコーチを務めた時(2000年に就任)からでした(アーノルドは1963年8月3日生まれ)。その後、クラブでの指導機会を得ますが、多くの場合は逆。クラブでまず働き、経験を積んで代表へ上り詰めるものです。
フランクと働いた時には、ハリー・キューウェル、マーク・ヴィドゥカ、ティム・ケーヒルという黄金世代の選手と共に素晴らしい時間を過ごしました。フランクの築き上げたチームは、『コンフェデレーションズカップ』2001(日本開催)で銅メダルを獲得しています。
2005年にフランクが去ると、フース・ヒディンクが監督に就任(2005年7月から2006年のワールドカップまで指揮)。私は彼のアシスタントコーチとなりました。
私がフースから学んだのは、普通だったら習得に10年はかかるのではないかと思うほど多くのこと。驚きの連続でした。
フースはフルタイムの契約ではありませんでした。PSVアイントホーフェン(オランダ)とも契約していたからです。そのため、予選の試合でも彼は指揮しましたが、メインの契約は2006年のワールドカップに向けて2006年に28日間指導するというものでした。ですから、就任当初から彼は私にプランニングとオーガナイズに関する大きな責任を与えてくれたのです。
彼は細部に驚くほどこだわりました。しかも就任前から代表選手全員の長所と短所を明確に把握していたこともりあり、選手たちはみんな、彼に一気に魅了されました。
フットボール以外のことでも細部に目を向けていました。フライトの時間、飛行機の座席順、トレーニング施設、時差、レフェリーの出身国……など、ピッチ外のことをリサーチして準備することで選手に一切の言い訳を許さない環境を整えました。
「トレーニングのとても大きな目的の一つは言い訳の余地を選手たちに残さないことだ」
ある時、彼はこう言い、続けました。
「そのためにはピッチ外も完璧でなければいけない。そうすれば選手たちは『いいトレーニングができなかった』、『私たちに結果の責任はない』とは言えなくなる」
強く印象に残っています。
「(ヒディンク)監督はハリーとマークに対してとても強い態度で接していました。ティミーにはソフトなコミュニケーションを心がけていたように思います」
人としての振る舞いにもよく驚かされました。
キューウェル、ヴィドゥカ、ケーヒルはオーストラリア史上最高の選手たち。恐らく私が生きている間に、ハリーとマークがリーズで得た成功、ティミー(ケーヒルの愛称)がエバートンで成し遂げたことを再現できる選手は現れないでしょう。彼らに続く選手は依然、出現していません。
フースは彼らのポテンシャルを最大限まで引き出しました。
実は、ハリーとマークに対してフースは厳しい態度で接していました。ティミーにはソフトなコミュニケーションを心がけていたように思います。つまり彼は、選手の能力を最大限引き出すために、一人ひとりに異なる接し方をしていたのです。
ドイツ・ワールドカップ予選でオセアニア代表となった我々は南米との大陸間プレーオフに進出(オーストラリア・サッカー協会は2006年1月1日よりAFCに加盟)。シドニー開催にもかかわらず、ウルグアイとの試合(2005年11月16日開催。11月12日の第1試合ではウルグアイが1-0と勝利)でフースはハリーをベンチスタートにしました。
私はオーストラリア人ですから、「ミスター、それは良くない。ハリー・キューウェルがベンチだなんて……」
すると彼は言いました。
「分かっている。ハリー・キューウェルが我々をワールドカップに連れて行ってくれるだろう。だからこそ今は、彼に何も話しかけるな」
ハリーは、監督の決断を受け入れられてはいないようでしたけど、途中出場するとマーク・ブレシアーノの得点をアシスト。素晴らしいパフォーマンスを披露しました(1-0と勝ったオーストラリアは2試合合計1-1とし、PK戦でも4-2として出場権を獲得)。
フースは、ハリーのような選手をどのように扱うべきかを経験と知識から熟知していたのです。
2007年には、彼らを擁したチームで『アジアカップ』に出場(2006年7月にオーストラリア代表の監督就任)。フースと同じように彼らと接しましたが、彼らをうまくコントロールできませんでした(大会後、A代表のコーチ兼オリンピック代表監督へ)。「ドン」とは違い、私は無名な1人の監督に過ぎませんから……。
フースは偉大ですし、並外れた監督。多くの学びを得られる時間を彼とは過ごせました。
フースの後任として代表監督となったオランダ人のピム・ファーベークからは(2007年12月〜2010年まで指揮)、家族のような文化を構築するための方法を学びました。選手にとっては、良い父親のような存在だったと思います。
彼は、本当に勉強熱心であり、コミュニケーションを大切にする監督でした。選手の能力を最大限発揮するために「自分がどれくらい選手を大切に思っているか」を選手本人に直接メールする時さえもありました。
フースとピムは私の人生を変えてくれた恩人です。
「マリナーズFCでは中盤をダイヤモンドにしました。恐らくAリーグで初めての試みです」
2008年の北京オリンピック後、あることを考えました。それは、自分が監督であり続けるには「日々のルーティーンに慣れること」、「選手の1週間のサイクルを作り上げること」などをクラブで経験する必要があるということです。
大きな転機となったのは2010年。私は、低迷していたセントラルコースト・マリナーズFCの監督に就任しました。前年度の成績はAリーグ(オーストラリア・リーグ)の8位。前年を下回る成績を残すようなことがあれば、私の監督は終了、結果を残せれば監督として生き残れるという覚悟を持って臨みました。
私が最後にオーストラリアのクラブに関わった時、クラブはセミプロでした(2001年にノーザン・スピリットFCで引退)。Aリーグが開幕してプロ化されたのは2005年です。
現在は2部練習ができるピッチ、選手と一緒に食事ができてコンディションをコントロールできる施設がクラブにはあり、プロを率いることになった私は、選手のフィジカル・コンディションやパフォーマンスを向上させるために必要なものを提供できるように努力しました。
私はとてもとても柔軟性のある人間だと思います。戦術的を守ってプレーしてもらいながらも、自身の長所を発揮するように選手には働きかけます。
スタイルとしては、相手陣内からハイプレスを仕掛けるチームを好みます。そしてボールをしっかり保持し、ポジションチェンジを繰り返しながら相手のライン間でボールを受けて背後を突きたいのです。
フットボールは難しくすることも、シンプルにすることもできます。大切なことは、選手が自分の長所を発揮できること。それができれば選手は安心し、自信を持ってプレーできます。
以前のオーストラリアでは、「システムが選手を選ぶ」という考え方が一般的でしたが、私はそう思っていませんでした。「所属選手がシステムを選ぶ」のです。選手の長所に合わせてシステムを決めたり、プレーさせたりしなければならないと考えていました。
マリナーズFCでは中盤をダイヤモンドにしました。恐らくAリーグで初めての試みです。対戦相手が対応できるようになるにはかなりの時間がかかりました。
「若さに賭ける」ことも決めました。マティ・ライアン、トミー・ロジック、トレント・セインベリーという18歳の選手を抜擢し、マリナーズFCの新しい時代を築こうとしました。
この点は幸運にも恵まれました。なぜなら、「クラブを存続させるために選手を売る」という方針を会長が採用したため、成績に拘泥する必要がさほどなかったのです。優れた選手を育てることに注力できました。
「選手たちは練習して家に帰るだけの関係であるべきではありません。マリナーズFCには確かな絆があり、選手は素晴らしい友人同士であり、助け合っていました」
クラブにはトレーニングジム、リハビリ用のプール、整備されたトレーニング用ピッチもありませんでした。そうした設備の有無はパフォーマンスに影響を確実に与えます。しかし愚痴を言っても仕方ありません。現状の中で最善の準備をするしかありません。とは言え私は、選手たちがさらに成長するために、環境を整えてほしいと伝えました。
シェフが作ったランチを取れるスペースを作りました。その資金は選手の給与から週20ドル支払ってもらうことで捻出。新鮮な野菜や果物があるだけではなく、みんなで食べるからこそ生まれるコミュニケーションも多く、結果として選手たちの雰囲気もとても良くなりました。選手たちは練習して家に帰るだけの関係であるべきではありません。マリナーズFCには確かな絆があり、選手は素晴らしい友人同士であり、助け合っていました。
私が率いた3年間(2010-12シーズン)でマリナーズFCはAFCチャンピオンズリーグの出場権を2回獲得。サラリー・キャップ制が導入されているAリーグ所属のチームが、この大会で優勝を狙うのはとても難しい。しかし彼らは、質の高い選手と対戦することで大きな自信をつけました。
2010-11その1年目はAリーグで2位。『グランド・ファイナル』(Aリーグでは1〜6位が『ファイナル・シリーズ』というトーナメントを戦う。その決勝がグランド・ファイナル)でPKの末、アンジェ・ポステコグルー(現在はセルティックの監督)の率いるブリスベン・ロアーFCに敗れました。2年目はAリーグを制覇(ファイナル・シリーズで3位)。3年目には再び2位となり、今度はグランド・ファイナルでも勝ちました(上記写真)。
日々成長できたのは、選手たちと彼らのエネルギーを信じ、日々トレーニングに励んだからです。
マリナーズFCの監督だった時、シェフィールド・ユナイテッド(イングランド)の幹部と面談したことがあります。しかし彼らは、私の国籍に疑問を持ち、結果、知識を疑われ、十分な信頼を得られていないと感じました。また、シドニーFCをはじめ、いくつかのクラブから打診がありましたが、タイミングが合いませんでした。契約期間中のオファーだったため、信頼してもらったクラブや選手のためにも仕事をやり遂げたかったのです。
2014年5月、オーストラリア最大のクラブであるシドニーFCの監督就任の機会を得ました。タイミングは良かったのですが、クラブの風土やピッチ外の環境に疑問を感じました(2014年にはベガルタ仙台も率いていた)。
「多くの人が、選手のリクルーティングとクオリティーが最も重要だと言います。しかし最も重要なことは人間性」
当時、シドニーFCにはアレッサンドロ・デルピエロが在籍(2012-14)し、彼には専用ロッカールームが与えられていました。
チームにはグループがなく、そもそもグループなど必要ないという風土でした。
私の監督としての最初の仕事は「デルピエロを残すか、移籍させるかを決めること」。私は後者を選びました。監督として、直感に従わなければいけない時もあります。
就任以降、多くのルールを作り、トレーニングジムや新しいトレーニングピッチも作ってもらいました。選手たちには早く朝食を摂らせるようにしましたし、分析部門の設立もしました。
新しい文化を構築する必要がありました。
例えば、ファミリー席を設置しました。それまでは、家族の座っている席や動向が選手に分からないような状態だったのです。また、シーズン前にはファミリー・イベントを実施。夫人たちに、チームの一員であること、選手と同じように大切な存在であると感じてほしかったのです。ファミリーを作るためにいろいろなアイディアを実行しました。
多くの人が、選手のリクルーティングとクオリティーが最も重要だと言います。しかし最も重要なことは人間性。もし、多くの人が「彼はいい奴だ」と言えば、その選手が成功を手にする可能性はとても高いと思います。そしてすべての選手とスタッフが同じ考えを持たなければなりません。ですから私は多くの選手とスタッフにクラブを去ってもらいました。
就任初年度からグランド・ファイナルにたどり着けましたが、運が味方した部分がありました(リーグ戦は2位)。コンディションが悪く、「チーム状態がいい」とは言えませんでした。2015-16シーズンはスタッフの入れ替わりもあり、Aリーグのトップ6にも入れませんでした(リーグ戦は7位)。それでもAFCチャンピオンズリーグではベスト16に進出しました。
「母国の代表を指揮することがどれほど大変なことか、多くの人は理解していないと思います」
3年目となる2016-17シーズン、すべての努力が結実しました。私たちのやり方は浸透し、カルチャーと人材を含めて必要なものがすべて揃いました。選手たちもしっかり成長し、タイトル獲得の準備が整っていたのです(Aリーグで1位、グランド・ファイナルも制覇)。
2018年、サッカールーズから監督就任のオファーが届きました。オーストラリアで最も偉大な仕事の一つですが、同時に最も重圧のかかる仕事でもあります。
母国の代表を指揮することがどれほど大変なことか、多くの人は理解していないと思います。心と体、そして情熱のすべてを代表チームに捧げ、目指すのは成功以外ありません。しかも、双肩には全国民の期待が重くのしかかります。
就任当時、オーストラリア代表は高齢化していました。私は、多くの選手を起用し、選手層を厚くしていきました。若い選手にチャンスを与えながら試合に勝ち、ワールドカップ出場権を獲得するという最も難しい方法にチャレンジしたのです。
そのチャレンジは、パンデミックによって難しさを増しました。
コロナウイルスの感染拡大によって2回のキャンプが中止。何人かの選手は感染しました。
それでも我々は大きな成功を収めます。東京で開催されたオリンピックに12年ぶりの出場を果たし、カタール・ワールドカップの予選では2次から3次予選にかけて11連勝という世界記録を打ち立てました(アーノルド監督は両監督を兼任)。
私たちは2022年ワールドカップ出場に向けてAFCプレーオフでUAEを2-1と下し、大陸間プレーオフではペルーを撃破(○2-1)しました。
選手たちは犠牲心と強い決意を示してくれました。私は延べ45人の選手を起用。時に選手は、所属クラブの許可なしに代表活動に参加してくれました。
本大の出場権を獲得した時、全員がホッとしました。私たちはやるべきことをやり遂げました。
そして今、我々は新しい挑戦に立ち向かいます。
翻訳:石川桂