フアン・カルロス・ウンスエ
プレーヤー, バルセロナ, 1988-1990, コーチ, 2003-2010; 2014-2017
これほどの素晴らしい監督たちと働き、いい影響を受けられた指導者は多くない。FCバルセロナ(以下、バルサ)で共に戦ったすべての監督が個性的であり、大きな戦術的インスピレーションを与えてくれる人物だった。
まず、大きな影響を受けたのが故ヨハン(1947年4月25日-2016年3月24日)。しかし振り返れば、ヨハンとの出会いは必然だったような気さえする。
私は6人兄弟の末っ子として生まれ(1968年生まれ)、兄たちとサッカーをする時のポジションはゴールキーパーしかなかった。時間の経過と共にゴールキーパーというポジションを好きになるのだが、風変わりなゴールキーパーではあった。
私は走るのも好きだった。15歳まではゴールキーパーとフォワードとしてプレー。相手が強い時や勝たなければいけない試合ではゴールキーパーとなり、イージーな試合ではフォワードという感じだった。
そうした経験を通じ、私は人とは異なるサッカー観を身につけ、ゴールキーパーとしてのポジショニングも人とは異なっていた。現代では、ゴールキーパーはチームメイトとの関係性の中でポジショニングを決定するのが常識だが、当時はそうではなかった。シュートをただ止めるのがゴールキーパーだった。でも、私は少し違った。
ヨハンの存在が、私をバルサに導いた(1988-90シーズン)。
当時の私にはセビージャ(スペイン)に加わる選択肢やレアル・マドリードで守護神フランシスコ・ブーヨと一緒にプレーすることもできた。しかし、ヨハンがバルサの監督に就任すること、私に興味を持っていることを知った時、バルサの一員になることを決めた。
「思いがけないチャンスが訪れた。GKコーチのオファーをFCバルセロナから受けた」
しかし当時の私は経験も浅く、スペイン代表でも活躍したゴールキーパー、アンドニ・ズビサレッタの壁を越えられず、ヨハンの下では出場機会をほとんど得られなかった。しかし私は彼からいろいろなことを学んだ。ヨハンの下でプレーした多くの選手がそうだったように……。そしてヨハンは、我々が慣れ親しんできたものとは全く異なるメッセージやゲームの見方を与えてくれた。
「コーチになろう」という思いは頭の片隅に常にあった。そして36歳(2003年)で現役から退くことを決めたとき、コーチになることを決意した。
とは言え、その頃は自分でサッカースクールを立ち上げて、「草の根のサッカー」に携わろうと考えていた。そういう活動に興味があったからだ。
「ロナウジーニョの感情表現がプラスに働いた」
ところが引退を決めた直後、予想さえしなかったチャンスが巡ってきた。フランク・ライカール率いるFCバルセロナでGKコーチを務める話が舞い込んできたのだ。
これほど素晴らしい話を断れるわけがない。コーチング・スタッフの一員としてゴールキーパーを最高の状態に保つ責任を負うようになったのはそれからだ。同時に、監督としてチームを率いたいという思いも生まれていた。
最初の数カ月は本当に大変だった。「大変」という言葉以外思い浮かばない。1998-99シーズン以降、主要タイトルから見放されていたのだから、当然と言えば、当然だ。
クラブには悲壮感さえ漂っていた。
しかしすべてが変わる。ロナウジーニョ加入が転機となる。
「フランクは時々、私が考えていることと正反対のことをする。それでも私は彼の決断を支持する」
覚えている人も多いと思うが、ロナウジーニョは得点するたびにサーファーが見せるようなジェスチャーで喜びを表現した。いつの間にか、チームメイトたちも喜びを全身で表現するようになった。彼のプラスの感情表現が伝播したのだ。
結果も大事だが、そういう変化はチームにとって最も大切なことだ。2005-06と2006-07シーズンのスペイン・リーグを制し、2005-06シーズンのチャンピオンズリーグで優勝できた背景にはそうした変化があったと思う。
ライカールの采配を側で見ていた私は、「彼と私の考えはまったく違う」と感じていた。時として、私の考えとは真逆のことを彼はするとさえ思った。しかし、彼の決めたこと、実行することを見るのが好きだった。
なぜなら、彼は人を観察し、人の話を聞き、良い決断を下すために意見を集約することができた。最高の能力を持った監督だった。
「グアルディオラはクライフのように革新的な人物だ」
ライカールト政権の後期(2007-09シーズン)はタイトルを逃し、いい雰囲気ではなかったと言う人がいる。私に言わせれば、「そういう状況でこそ、際立った存在感を放つのがライカールト」だ。彼は、自分のアイディアを決して手放さず、信念を決して曲げなかった。
競技面に限らず、チームが苦境に陥った理由はいたってシンプルだ。サッカーに限らず、スポーツ界で勝ち続けるのは簡単ではないからだ。
2008年に訪れたエンディングは望ましいものではなかった。しかしその結末は、その後に続く美しい物語を可能にする優れた決断でもあった。グアルディオラ(以下、ペップ)が監督となり、輝かしい歴史をつむぐためにバルサは新しい道を歩み始めた。
監督就任前からペップは私を気に入ってくれていた。実は、ライカールトが監督になる前からゴールキーパー・コーチとして私をクラブに推薦してくれていたのだ。
「偉大なフットボーラーのためにゲームを簡単にすれば、必ず勝てる」
クライフ同様、グアルディオラも革新的な人物だ。彼は簡単ではない決断を下せる。支持を得られそうにない決定もできる。
例えば、「サミュエル・エトー、ロナウジーニョ、デコを戦力として見なしていない」などとは簡単には言えない。しかし、クラブとチーム、そして将来のために何をすべきかを熟知している彼だからこそ、実行に移せた。そして歴史は彼の正しさを証明した。
もちろん、1年目からすべてのタイトルを獲得すると言う者などいなかった。誰も考えていなかったと思う。一方、練習試合であっても「勝ちたい」という気持ちがチームには満ちていた。高みを目指す思いが、常にベストを尽くさせるのだ。
ペップはエネルギーと情熱を持ち続け、毎シーズン、それらを表現し続ける。そしてペップが伝えること、遂行できることを見聞きした選手は、「自分たちは何でもできる」とすぐに確信していくのだ。
「家族と過ごしていると、ルイス・エンリケからの電話を受けた」
ペップは選手たちにとってファシリテーターだった。
監督が、偉大なフットボーラーのためにゲームを簡単にしたら、結果はどうなると思う? すべてを勝ち取ることになる(史上初の6冠を達成)。
2010年、私はあること決意する。任期を残すグアルディオラと別れ、自分の道を歩むことにした。
ペップとクラブは理解を示してくれた。彼らは私の意思を知っていたのだ。
行き先はヌマンシア(スペイン)。「トップチームの監督になる」という夢をついにかなえた。2012-13シーズンからはサンタンデールの監督となるはずだったが、契約や会長との交渉が不調に終わり、監督に就くことはできなかった。
「ルイスは最初からローマに留まるとは決めていなかった」
その時、一旦立ち止まろうと思った。現役時代も含めて20年以上も走り続け、家族と過ごす時間が足りないと感じたからだ。
そう決めて家族と過ごしていると、ルイス・エンリケからの電話を受けた。
初めは、ASローマ(イタリア)の監督だったルイス(2011-12シーズン)とローマで一緒に働くことになるのだろうと考えた。しかし彼は、翌2012-13シーズンもASローマで働くことはまだ決めていないと言う。
家族と一緒に考えたが、結論は簡単に出た。
「2人が完璧な仕事ができるかどうかを試すリトマス試験紙だった」
私は、新しいことに挑むのを好む。しかもルイスとの信頼関係を考えれば、イタリアでの仕事はうまくと確信していた。しかし、ルイスが辞任したため、ローマでの冒険は幻に終わった。
立ち止まる時間を得た私は趣味のサイクリングに没頭した。南アフリカで開催された『ケープ・エピック』(マウンテン・バイクのレース大会)に出場し、8日間、天候に左右されながらもさまざまな状況を乗り越えた。本当にクレイジーな挑戦だった。
人には感情の起伏があり、お互いのフィーリングが全くかみ合わないこともある。思えば、ASローマ時代のルイスとのやり取りは「私たちが完璧な仕事ができるかどうか」を試すためのリトマス試験紙だったのだろう。
そして、我々は一緒に働くことになる。手始めにセルタ(2013-14シーズン)、そして2014-15シーズンからはFCバルセロナに戻った。当時のバルサは、リオネル・メッシ、ネイマール、ルイス・スアレスなどの偉大なフットボール選手がいるチームだった。
私にはヨハンの言葉が思い出された。「複数の雄鶏がいるチームはコントロールが難しい」と彼は言っていた。
しかし3人は「誰が雄鶏なのか」をしっかり理解した上でうまくプレーしていた。
彼らは、力を合わせればいかなる強敵にも引けを取らないこと、そしてお互いを高め合えることに気づいていた。結果、前線の3人はチームメイトと協力し、クラブ史に燦然と輝く偉業を果たす。2014-15シーズンに2度目の3冠を達成した。
グアルディオラの下での役割とは変化もあった。私は、ルイスからいくつかの責任ある任務を与えられた。最も重大なものはセットプレーを任されたことだろう。
ルイスと過ごした日々を通じ、トップチームの監督に向けて再出発するためのトレーニングを終えた。今後の指導者キャリアでは、実にユニークな監督たちから学んだ幅広い概念を携えて歩を進めることになる。