ルイス・フェリペ・スコラーリ
ブラジル代表 2001-2002 / 2012-2014, ポルトガル代表 2003-2008,チェルシー 2008-2009
「どんな苦境でも、ポジティブな面を見つけたいと思う」
悪い時もポジティブに考えるようにしている。
「次のチャンスで結果を残すために学ぼう」と前を向く。
もちろん、結果に落胆して挫折を味わうこともある。特に、「自国開催の大会」で結果を残せないとつらい。EURO2004で開催国ポルトガル代表、ブラジル・ワールカップでブラジル代表を率いたときだ。南米王者を決める『コパ・リベルタドーレス』での敗戦も大きな痛みを伴う。
それでも、時間は待ってくれない。わざわざ口に出さなくてもミスから学び、新たな目標を設定して歩き始めるのが私だ。決断の際にはいつも直感を信じるが、正しい決断をしてきたと思う。今まで7カ国で働き、トップクラブや代表チームの監督も務めてきた。その点では、褒められてもいいだろう。
「直感を信じ、前へ進め」、これが私のアドバイス。「うまくやれていない」、「分からなくなってきた」と言うべきではない。高い壁に直面しても、乗り越えなければいけない時がある。苦境でも活路を見つけて前進しなければならないのだ。
選手として歩み始めた18歳の頃から今まで、サッカーで達成したすべてのことを誇りに思う。自分の限界を熟知して全力を尽くしたからこそ、「もっとやれた」とはあまり思わない。
70歳を越えた私は、サッカー以外の面に関しても満足している。
劇的な勝利、数々のトロフィー、素晴らしい職場--。すべての体験が素晴らしく、一つの思い出を特別視するのは難しい。 確かに、母国、ブラジル代表を率いてワールドカップを制したのは素晴らしい体験だ(2002年)。しかし、それに比肩する思い出もある。監督になったばかりの頃も掛け替えのない時間だ。
「ワールドカップのようなビッグトーナメントでは監督は実に多くの決断を迫られる」
『カシアス』というクラブでプロになった時から「将来は監督になりたい」と思っていた。サッカーの指導者を目指して学校に通い、クラブの内外で指導者になるための準備を進めていた。
私には目標とする監督が2人いる。1人はセルヒオ・トーレス監督(1926年9月21日ー2007年6月24日)。グレミオ(ブラジル)で栄光を築いた彼は、とても純粋で曲がったことが嫌いな人物だった。
もう1人は、「キャプテン」ことカルロス・フロナー監督(1919年11月19日-2002年8月21日)。選手時代の晩年、フロナーの下でプレーできたため、彼の考え方や性格を少しは理解できた。友好的な空気を自然とつくり出し、選手たちをしっかり守ってくれる人だった。選手を大切に扱い、選手にとっては父親のような存在でもあった。
今でも、彼らは私にとって最高の監督だ。監督キャリアを始めたときから、常に2人を目標にしてきた。
2001年、ブラジル代表の監督に指名されたとき、私の監督キャリアはすでに20年を越えていた。
とは言え、監督就任時のブラジル代表の置かれた状況は簡単なものではなかった。日韓ワールドカップに向けて予選突破が危ぶまれていたのだ。それでもブラジル代表は1年後、ワールドカップ王者として日本を後にしている。
ワールドカップのようなビッグトーナメントでは監督は実に多くの決断を迫られる。試合中はもちろん、次の試合に向けても決断から逃れられない。決断の連続だ。そうした中、「2002年における最良の判断は?」と聞かれたならば、大会前に決めたことを挙げたい。それは、ワールドカップのメンバー選考だ。
どの側面から考えても「最良のメンバーだった」と思っている。大会中に直面した課題の数々を振り返ると、「最良だった」という確信がさらに深まる。
大会初戦の前日、キャプテンのエメルソンが肩を負傷してメンバーから外れた。日本の読者も覚えているだろう。チームの支柱を失った私はすぐさま、チーム専属の心理学者、レジーナ・ブランダオにアドバイスを求めた。彼女は言った。「チームのリーダー役を3〜5人の選手に分けるといい。そして(フェリペが)『何を望み、どうしたいか』を理解してもらってください。あなたのことを上手に代弁してサポートしてくれるはず」
私は、彼女のアドバイスを受け入れることにした。
「ポルトガル代表の監督をしながら、FAと契約するのは正しいこととは思えなかった」
メンバーを振り返ってみよう。生まれついてのリーダーであり、自然な影響力を有していた正直者、カフー。ディフェンスの要にはロッキ・ジュニオールがいた。彼とはパルメイラスでも一緒に働いた。世界で最もよくしゃべるロベルト・カルロスも選んだ(笑)。誰とでもコミュニケーションを図れる彼は、私と選手の「架け橋」として重要な役割を果たしてくれた10番を任せたのはリバウド。彼は、ロベルト・カルロスと対照的に、「おはよう」も言わないくらい無口だった。
そして我々にはロナウドもいた。彼は、ひと味違ったリーダーシップの持ち主だった。
私は言った。「リバウド、自慢の技術でチームをけん引してくれ。よく喋り、よく叫ぶロベルト・カルロスは声かけのリーダーだ。カフーは全体のリーダー。ロッキ、ディフェンスをまとめてくれ。ロナウド、ヨーロッパの経験も豊富な君が攻撃の中心だ」
完璧な配置だった。全員が自分の役割をしっかり理解していた。 ドイツとの決勝(2‐0)までの道のりにおいて、各選手がいい影響をチームに与えてくれた。
ワールドカップ優勝の数年後、イングランドと関わりを持つことになる。
初めはミーティング程度に考えていた。それが、2度ほどFA(イングランド協会)と話し合いの場を持つと、代表監督就任の話となった。だが当時、私はポルトガル代表の監督だった。2006年のドイツ・ワールドカップを目前に控え、「ポルトガル代表とイングランド代表が本大会で対戦する可能性もある」と考えていた(実際に対戦するのだが……)。
ポルトガル代表の監督でありながら、FAと契約を結ぶのは正しくない。正式な契約発効は大会後だとしても、倫理的に正しくないと思ったのだ。
しかし、私の真意はFAには理解されず、早期の返事を求められた私は断った。「申し訳ない。ポルトガルとの契約があり、今はオファーに応えられない」。私はそう伝えた。
当時、ポルトガルについて調べたイングランドの記者は、「FAのオファーを断ったことは間違いだ」と報じた。私は、仕事を拒否してはいない。私の置かれた状況を考えて「時期が良くない」と返答しただけだ。
「ピッチ上ではライバルかもしれないが、ピッチ外ではそうではない」」
それでも2年後、私はイングランドにいた。チェルシーを率いることになったからだ。
ただし、短命(2008年7月1日~2009年2月9日)に終わった。なぜそうなったのか? 私は誠実であり、ルールを守った。だが、手術の種類にもよるが、できる限りロンドンで治療し、クラブでリハビリを行なうと決めたのに、従わない者がいた。他のルールを守らない者もいた。結果、数名の選手とは軋轢が生じた。私は彼らの将来を考えていたつもりだが、うまく伝わらなかった。
私がチームを預かる上で大切にしていることを醸成できなかった。それは、落ち着いた雰囲気の中で信頼し合うこと、そしてフレンドリーな環境だ。
すべての仕事において私はできる限り誠実でいたいと思っている。「(監督は)真実を話している」と選手に感じてほしいからだ。私の真実に賛成しない者もいるかもしれないが、それは私の真実であり、賛成してほしいと思う。
誠実であることは人間関係において最善のマナーだ。共感する心が生まれ、いい環境づくりが可能になるからだ。
短気間ではあったが、イングランドでも素晴らしい経験をさせてもらった。チェルシーでは、人と人との間に生まれるリスペクトを感じられる日々を過ごした。ライバル関係にあっても、試合の前や後に他クラブの監督から自宅に招待され、サッカーや人生について話し合ったりしたのだ。
こうした経験は、「もっと同業者をリスペクトすべきだ」という気持ちにさせてくれた。私は、キックオフから試合終了のホイッスルが鳴るまで、対戦相手の監督に感謝の気持ちを抱くようになった。
以降、仕事の場所を変えつつも、私は「受けた恩義」を返すように心がけた。監督を歓待すること--。ピッチ上ではライバルかもしれないが、ピッチ外ではそうではない。
サッカー以外に関しても、ロンドンの生活は素晴らしかった。素晴らしい都市であり、本当に特別な場所だ。
印象的だったことがもう一つある。それは「地元のクラブ」に対する深い愛情と愛着だ。いかなる場所の試合であっても、スタジアムは地元のサポーターで膨れ上がる。リバプール、チェルシー、マンチェスターユナイテッドといったビッグクラブだけが愛されているわけではない。誰もが地元をクラブを愛している。
本当に素敵なことだし、忘れられない体験だ。
「アレックス・ファーガソン(マンチェスターユナイテッドの元監督)から多くのことを学んだ。彼は私の師匠だ」
再び、ヨーロッパで働くかもしれない。「ない」とは言い切れないだろう?
クラブや代表チームは若く、斬新なアプローチを持った監督を探すだろう。70歳を越えた私に多くのチャンスがあとは思えない。しかし、「私だからこそ、できること」があるかもしれない。
私は「自分が年老いてる」とは思っていないし、まだ働ける。
これは、アレックス・ファーガソン(マンチェスターユナイテッドの元監督)から学んだことの一つ。彼は私の師匠であり、実に多くのことを彼から学んだ。クリスティアーノ・ロナウドがポルトガル代表でプレーする時、ユナイテッドを率いるファーガソンとよく話した。私がチェルシーにいた時も相談した。
ファーガソンの立ち居振る舞いを観察していた。彼のメソッドを研究し、学んだことを私は役立ててきた。
例えば、「役割分担」の重要性も彼から学んだ。任せるときにはしっかりと人に任せる。ファーガソンは、そうしてカルロス・ケイロス(マンチェスターユナイテッドのアシスタントコーチ時代)ともいい関係を築いていた。
「役に立たない」などと私は考えないし、「生涯現役」でいたい。そして、30、35、40歳の後進に自分の知識と経験を伝えたい。若手はエネルギーに満ちているかもしれないが、私のような経験を持っていない。
「より良い条件の契約を目指すべき」と選手には言い続けてきた。同じ日は一日もないからだ。「今日は契約したくなくても、明日になったら翻意して契約してもいい」、「2年単位で考え、異なる自分になって別の場所に移動してもいい」。私は、選手にそう言っている。
残り時間が減ったため、「2年単位で考える」のは私には難しい。だが、私にできることはまだある。
私は、直感に従っていこうと思う。周囲の人間にそうアドバイスするし、これからもそうしていくつもりだ。
なぜなら、直感に従うことでいい人生を歩めているからだ。
翻訳:澤邉くるみ