マティアス・アルメイダ
AEKアテネ:2022~現在
何もないところからスタートしました。ライセンスやトレーニング・プログラムはなく、気心の知れたコーチングスタッフもいませんでした。コーチとしての私のスタートは、ほかの仲間たちのものとはまったく異なっていました。
すべての始まりは2009年。私は「まだ現役プレーヤー」でした。
2005年に私(1973年12月21日生まれ)は引退を表明していましたが、アルゼンチンに戻り、4部リーグに属する『CAフェニックス』と契約して復帰したのです。
「なぜ、引退したのか?」
理由は至ってシンプル。2005年の私は、サッカーの試合、そしてトレーニングが続く日々に疲れていたのです。
CAフェニックスで数カ月プレーしたあと、プロデビューを果たしたCAリーベル・プレート(かつて1991-96シーズンに所属)に36歳で戻りました。リーベルという自分が住み、働き、サッカー選手、そして人間として成長したクラブでしっかりピリオドを打ちたいと考えたからです。
「リーベルで終わる」、それが私の願いでした。
私のプランを大きく狂わせる出来事が2011年6月に起こります。
降格圏内に落ち込んだリーベルは、2部所属の『ACベルグラノ』との残留決定プレーオフに回ることになったのです。アルゼンチンのプリメーラ(1部)残留か、クラブ史上初の2部降格かーー。
第1試合を0-2で落としたため、2戦目に向けた1週間では「何が起こるか分からない」という覚悟で練習に励みました。また当時のリーベルは若い選手が多く、年長の私がキャプテンを務めていました。
「コーチとしての私のスタートは、ほかの仲間たちとはまったく異なるものでした」
私はとにかく、サッカーの価値や団結がもたらす強さを若い選手に実感してもらおうと思っていました。
プレーオフの第2戦は1-1の引き分け。残念ながら2試合合計1-3で敗れ、110年に及ぶ歴史を持つクラブが初めて2部に降格。とても悲しいことでしたが、降格後はひどかった。朝の4時までスタジアムから出られなかったのです。暴徒と化したサポーターに囲まれ、ロッカールームから出られませんでした。
帰宅しても眠ることなんてできませんでした。「ある決断」が頭の中を駆け巡ったからです。次の日、リーベル・プレートの会長を務めていたダニエル・パサレラ(元アルゼンチン代表。下写真)に電話して言いました。
「監督をやらせてほしい」
パサレラは乗り気ではありませんでした。
「本気で言っているのか? この状態で監督になって成功を収められなければ、監督になる機会は2度と得られないぞ」
私は即座に言いました。
「気にしていません。うまく対処し、成功するつもりです」
私はリスクを覚悟していることを明らかにしたかったのです。
「降格したリーベルの監督なりたいと思う人物は皆無。しかし私はチャレンジしたいと思っていました」
2部での戦いに向けたプレシーズンが始まったのは降格が決まってから2週間後でした。ロッカールームには微妙な空気が満ちていました。少し前までチームメイトだった人間が監督になっているのですから当然でしょう。
私自身も、クラブの置かれた状況も含め、随分と重いものを引き受けたと感じていました。そんなものは誰も背負いたくないものです。実際、降格したリーベルの監督なりたいと思う人物は皆無。しかし私はチャレンジしたいと思っていました。
監督就任の1年で7年分の仕事をした気がします。それだけ努力しましたし、情熱を持って取り組みました。
監督としてチームを指揮しながら、クラブの許可を得て私はライセンス・コースを受講しました。チームでのトレーニングとその準備、そしてライセンス・コースでの勉強。大変でしたが、幼い頃から私は好きなことには徹底的にこだわるタイプでした。スケジュールを決め、シミュレーションし、頭の中でいくつものパターンを繰り返す……、努力を怠りませんでしたし、精神的なプレッシャーを自分に与え続けました。
監督になるための訓練や経験が私に欠けていたのは事実。しかし私は、選手として経験してきたものと見てきたものをすべて活かして補おうと考えていました。同時に、私が気に入らなかったことは絶対に持ち込まないと決めていました。
「当時は、家族で外食に行くこともできませんでしたし、オフの日に出かけることもできませんでした」
監督になっても、「自分が選手だったこと」は決して忘れてはならないと考えていました。私は、「サッカー選手には受け入れ難いことがある」のを熟知していました。とりわけ、嘘をつかれるのが嫌なのです。
私はサッカーに関して嘘をつきたくありません。選手に対し、正直、かつ誠実、そして率直であることを心がけています。
そう考えると、私が考える監督という職業ではメンタルの部分が非常に大きなウエートを占めると言っていいでしょう。むしろ、メンタルがすべてのベースと表現していいかもしれません。なぜなら、サッカーではあらゆるものが人間によって創造されるからです。
個人的にも、2部で過ごすリーベルを率いるという苦しい時期を乗り切るにはメンタル面が非常に重要でした。当時は、家族で外食に行くこともできませんでしたし、オフの日に出かけることもできませんでした。トレーニング場と自宅の行き来だけ。「トラブル」を避けるため、ほぼ1年間その状態でした。チームの結果によって私だけでなく家族の生活が影響を受けることを理解していたため、身を隠すように暮らしたのです。
私個人は、サポーターの機嫌を気にしながら身を潜めて生活することに賛同していたわけではありません。サッカーが目的なんですから……。
しかし、他人の感じ方や考え方を私には決められません。たとえ共感できなくても、尊重しなければならない。だから私はひっそりと生活したのです。
「『サッカー選手には受け入れ難いことがある』ということを熟知していました。とりわけ、嘘をつかれるのが嫌なのです」
リーベルでの1年目には過剰なプレッシャーを受けましたし、「辞めろ」と言う人にもたくさん会いました。「このままではいけない、マティアス」とも言われました。
しかしそう言う人々は私のことをよく知らない人たちでした。
15歳の頃から私の人生は挑戦の連続でしたし、チャレンジングに生きてきました。限界に挑戦するのはアドレナリンが放出されているのを感じたいからです。それは監督になった今でも同じ。ベンチ要員として過ごした数年、そして上を目指していないクラブで働いた時期も、私自身はチャレンジしてきたつもりです。
サッカー界には「勝利に対する執着」とでも表現すべきものが蔓延しています。だから、降格1年目にリーベルが2部で優勝(20勝13分け5敗)したのを喜ぶのは恥ずべきことだったようです。そうしたプライドは実にバカバカしいし、謙虚さの欠如も甚だしいと私は思っていました。
そうした状況下にリーベルはありましたが、プリメーラ復帰に成功したのです。
試合終了のホイッスルが吹かれて1部復帰を決めた時の感情はショッキングなものでした。うまく言うのは難しいですが、恐ろしいほどの強い感情が凍り付いた気持ちを解かす感覚ーー。
実際、私は涙を流していました。サッカーで泣いたことはほとんどないのですが、あの時は泣きました。しかし、私は恥じてはいません。私の無力さ、怒り、そして「私には無理だ」、「まだ準備ができていない」と言った人々に対するすべての怒りを示すために必要な行為だったのです。
「15歳の頃から私の人生は挑戦の連続でしたし、チャレンジングに生きてきました」
今、振り返っても大変な一年でした。しかし、一丸となって復帰に向けて取り組めましたし、サポーターの応援が強く印象に残っています。
中には、「1部昇格の瞬間」を恥ずべきものとして消したい記憶と考えている人もいるようです。しかし、私とコーチングスタッフ、そして実際に戦ってきた者は心にしっかり刻みたいのです。なぜなら、私たちの家族は誰もが苦しんでいたからです。我々の妻、子供、父親、そして母親も。
みんな、本当に苦しみました。だから忘れるわけにはいきませんし、たった1シーズンでプリメーラに戻れたことを喜ばずにはいられなかったのです。
チームは1部復帰を果たしましたが、ピッチ外の「騒動」が影響してチームの補強をうまく進めることができませんでした。十分な強化資金がなく、ほぼ2部を戦ったメンバーで復帰した2012-13シーズンを戦うことになりました。しかも数名の選手が出ていく中……。
リーベルのクラブ会長戦が影響していたのです。
アルゼンチン・サッカーにおけるクラブの会長選挙は国の権力者を決める大統領選挙と似ています。候補者同士が鎬を削り、チームの関係者は無関係でいることはできず、チームの周囲には毒々しい雰囲気が漂います。
そうした雰囲気は日々、ピッチにも影響します。そして争いは派閥を生み、その争いに巻き込まれる者もいます。
2012年の8月5日に開幕した前期リーグでは思うように勝ち点を積み上げられませんでした。そして3試合連続して引き分けあと、11月27日に解任されました。残り2節の時点でクビになり、私は大きな苦痛を味わいました。「君ではもう勝てない。もはや用無しだ」と宣告されたようにも感じました。やってきたことなど無意味だと……。
でも、2012年には多くのことを学べました。プロの監督として、そして人間として成長できましたし、それらを活かすようにしています。
「チームは1部復帰を果たしましたが、ピッチ外の『騒動』が影響してチームの補強をうまく進めることができませんでした」
「解任される」という噂を耳にし始めた頃、システムを変えました。中盤を4人にしたのですが、最悪の決断でした。今でも後悔していますし、監督として2度とすべきではないと思っています。
私はリーベルを深く愛していましたし、どんなことをしてでも監督を続けたかった。とても貴重な経験をさせてもらったとも考えています。だからこそ、「どうせクビになるんだ」と投げ出すように信念を曲げるべきではありませんでした。
お気に入りの靴を履いたままクラブを去るべきなのです。
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2013年の4月、アルゼンチン・リーグ2部の『CAバンフィエルド』と契約。伝統的にカウンター・アタックを主武器にするチームでしたが、すべてを刷新して新たなスタイルを作り上げたいと思い、「4-4-2」システムから「3-3-1-3」システムに変えました。
非常に奇妙なシステムであり、リスクの高い変更であることは承知していました。しかし、対戦相手をつぶさに研究した上で出した結論。ほとんどの対戦相手が2トップだったため、3バックのうちの2人のDFとGKで数的優位にしてビルドアップを開始してワイドにボールを展開して機動的なサッカーを展開しようと考えたのです。
選手に納得させ、動きを習得してもらうのは簡単ではありませんでした。しかしやり遂げ、我々は主導権を握ってゲームを進められるようになったのです(2012-13シーズンは4位)。
「私は涙を流していました。サッカーで泣いたことはほとんどないのですが、あの時は泣きました」
2013-14シーズン、選手たちはさらに順応して素晴らしいサッカーを披露。2部リーグ優勝を果たして1部昇格に成功しました(2015年8月3日に辞任)。
続いてベンチを預かったメキシコの『DCグアダラハラ』(愛称は『チーバス』)でも、同じようなサッカーを目指しました。ボールをポゼッションして競争力の高いチームを作りたかったのです。
選手たちも懸命に期待に応えようとしてくれました。努力の甲斐もありあり、2015年からメキシコ・カップ2回、後期リーグとメキシコ・スーパー・カップを1回、そしてCONCACAFチャンピオンズリーグで優勝しました(2015年9月15日〜2018年6月11日まで指揮)。
2018年末、MLSの『サンノゼ・アースクエイク』から監督就任のオファーを受けました。ただし、米国での挑戦はこれまでのものと随分と異なるものでした。サンノゼの競争力は高くなく、下位に低迷することの多いチームだったのです。つまり、乗り越えるべきハードルがこれまで以上に高いことが予想されました。
しかし、私を指名してくれたGMのジェシー・フィオラネリ(現在はACミランのスタッフ)はチームが成長するためにあらゆる手段を提供すると約束してくれました。魅力的なオファーに移ったので米国行きを決めました。
「メキシコの『DCグアダラハラ』でも、同じようなサッカーを目指しました。ボールをポゼッションして競争力の高いチームを作りたかったのです」
サンノゼでは、それまで預かったチームとはまったく異なるトレーニングにも取り組みました。パス・アンド・コントロールという基礎的な練習を実施し、時には私も参加。簡単には成果が出ませんでしたが、チームが軌道に乗るまで粘り強く続けました。すると、2018シーズンに最下位だったチームが徐々にランキングを登り始めたのです。
選手たちもサッカーを楽しめるようになっていき、監督である私にとってもそういう姿は励みとなりました。2020年シーズンには西地区で8位となり、MLSカップ・プレーオフに初めて進出。PK戦の末に1回敗退(対スポーティング・カンザス・シティ)となりましたが、チームを変えることに成功したのです(2022年4月18日辞任)。
AEKアテネ(ギリシャ)は私が探し求めていたクラブ(2022年5月就任)。私にとって初めて指揮するヨーロッパのクラブであり、ヨーロッパで自分の力を試し、成長したい。
パサレラ会長の「監督として初めて預かるクラブをリーベルにするのはどうかしている」という発言の真意は今になれば、よく分かります。彼は正しい。監督としての経験がまったくないにもかかわらず、クラブ史上初めて降格した名門クラブを率いるのはあまりにも無茶な話です。
しかし、あの決断があったからこそ、今の自分がいるのです。だから、もし過去に戻って再びスタートを選ぶとしても、何も変えないでしょう。
すべて同じにすると思います。