パウロ・アルトゥオリ
サンパウロFC:2005年&2013年
国を出ようと決めたのは、30歳になる前でした。
私の恩師は、1974年の西ドイツ・ワールドカップでキャプテンとしてブラジル代表を4位に導いたマリーニョ・ペレス(1947年3月19日生まれ)。1986年にはポルトガルのヴィットーリア・ギマランイスで監督を務めており、アシスタントに私を指名してくれました。今でも彼には感謝しています(アルトゥオリは1956年8月25日生まれ)。
その後、ブラジルを出ると決めた時、私は2つの目標を掲げました。人間として進化すること、そして異文化への造詣を深めること、です。
2番目の目標はプロフェッショナルな監督として掲げたものでした。海外で結果を出すことに挑戦したかったのです。
人間としても大事な素養ですが、サッカー指導者にとっても「適応力」は不可欠。さまざまな状況に適応できなければなりません。そのためには異文化に対する造詣を深めるべきと考えたのです。もちろん、自分の性格やプロとしての矜持を犠牲にしてまで適応する必要はありません。
振り返ってみると、さまざまな場所で働いて現場を知ることは、とても豊かな経験だったと思います。私は3大陸、そして7カ国で仕事をしました。
すべての国と経験を通じて私は良い結果を得られました。それぞれの土地における習慣や特質を知り、それに適応できたのです。
サッカーのコーチは、『ピープル・マネジャー』でもあります。戦術やテクニックを伝えることだけが仕事ではありません。自分のやり方を信じてもらえるように、グループを率いなければなりません。そして異なる文化的背景を持つ人々を指導する場合、「リズムの合わせ方」を学ぶことになります。柔軟性を身につけるためです。
「現代社会には、勝利への病的な執着があるように感じています。何が何でも勝たなければならない、それは危険な精神状態です」
SLベンフィカ(ベンフィカ)を率いた1996-97シーズンは『ボスマン制度』(EU域内の国籍を持つ選手は契約終了後、EU域内のクラブへ自由に移籍できる、など)が導入された初シーズン。いきなり、13カ国の選手と働くことになりました。今ではそうしたことが当たり前ですが、当時はファンにもマスコミにもそうした変化には抵抗がありました。
多様性に富んだグループを指揮する大変さに理解を示す人もいませんでした。それでも、異なる習慣や文化的背景を持つ人たちを指導できたのは、とても貴重な経験でした。できることならば、私も「異国でプレーする1人」になりたかったくらいです……。
10代の頃、私はポリオに罹患し、プロ選手への道を閉ざされました。多くの人が知っている事実ですが、今での多くを語りたくありません。選手にはなれませんでしたが、私の人生は常にサッカーとつながっていたからです。
16歳までフットサルの選手でした。フットサルは、ブラジルでも非常に競技人口が多いスポーツでもあります。私は、11人制サッカーの育成カテゴリーでも導入すべきですし、プレー経験はとても役立つと考えています。
病気は、別の人生を私に選ばせました。プロ選手としての貴重な経験を持てませんでしたが、その知識を得るために他の方法を探すことにしました。スポーツ教育という学問的な道を歩むことしたのです。
私はずっと、サッカーに情熱を注いできました。戦略性と美しさの両方を高く評価しています。
CSマリチモ(1991-95シーズンに指揮)を率いていた頃の映像がインターネットにアップされています。マデイラ島のクラブが初めて『UEFAカップ』(現在のUEFAヨーロッパリーグ)に出場した時のものです。
そのビデオの中で記者は、私のことを「哲学者」と呼び、「叙情的」で「ロマンチスト」とも言っています。彼は、「結果を出すための手段として魅力的なサッカーを選んだ私」に興味を持ったようなのです。
「コパ・リベルタドーレスの大会途中に彼と口論しました。しかも、チームバス内で選手を前にして……」
私は常にサッカーを人間的、社会的、哲学的な側面も含めて見たり、分析したりしています。サッカーは純粋な人間学という認識。人間と文脈なのです。
ただし、私には受け入れられないことが一つだけあります。
「私は勝つために生まれてきた」という思想です。
誰も負けるために生まれてはいません。
ある要因の結果が勝利にすぎないのです。
現代社会には、勝利への病的な執着があるように感じています。何が何でも勝たなければならない、それは危険な精神状態です。
私のモットーは、「常に自分に打ち勝つこと」、「進化すること」、「成長すること」。今の自分より優れた存在になりたいのです。人としてあるべき姿、プロフェッショナルとしてあるべき姿を探し求めています。
私は幸運にもキャリアを通じ、勝てる集団と一緒に働く機会を得てきました。
指導者が自分一人で物事を解決できると考えてはいけません。それは無理な話です。結果を出すには、チームが勝利に慣れ親しむ必要があるのです。
例えば、2005年に指揮したサンパウロFC。当時のチームは、エメルソン・レオン監督(1949年7月11日生まれ)のもとでサンパウロ州のチャンピオンになっていました。シーズン途中に私が引き継ぎ、南米王者を決める『コパ・リベルタドーレス』とFIFAクラブワールドカップで優勝しました。その後、鹿島アントラーズの監督に就任した私の後任となったのがムリシ・ラマーリョ監督(1955年11月30日生まれ)。多くの選手がチームに残ったこともあり、ブラジル選手権を2006年から3連覇しました。
3人の監督はそれぞれ異なる指導アプローチを持っています。それでも、当時のグループは勝利を収め続けました。
1997年にベンチを預かったクルゼイロECも勝てる集団と言うべきでしょう。しかし、コパ・リベルタドーレスのグループステージでは初戦から3試合は勝ち点なし。「事実上の敗退」と多くの人に見なされました。
それでもチームは息を吹き返し、3連勝でグループ2位となって勝ち抜きました。数学的にあり得ないような予選突破、そして優勝へ向けてチームは快走。当時のチームの反応は強く印象に残っています。レジリエンス(回復力)に基づいた勝利だったのです。
しかし残念なことに、私はクラブの取締役の一人と問題を抱えていました。私たちはお互いに話すことさえできませんでした。
コパ・リベルタドーレスの大会途中に彼と口論したこともあります。しかも、チームバス内で選手を前にして……。恥ずべきことです。その日、私は会長に「どんな結果になろうとも、チームの指揮を続けるつもりはない」と告げました。
そんなこともありました……。
迎えたコパ・リベルタドーレスの決勝でスポルティング・クリスタル(ペルー)を破った翌日(2試合合計1-0)、クルゼイロECの監督を辞任しました。
クルゼイロECではFIFAクラブワールドカップに出場できませんでした。しかし、その数年後、サンパウロFCでチャンスをつかみました。
先ほども触れましたが、レオンの後任として着任したのはコパ・リベルタドーレスの途中からでした(2005年4月29日就任)。監督として初めてコパ・リベルタドーレスを指揮したのはグループステージ最終戦(相手はボリビアの『ザ・ストロンゲスト』)。突破は決めていましたが、ノルマが課せられていました。同国のライバル、SEパルメイラスとの対戦をベスト16で避けるには4点差での勝利が必要だったのです。3-0とノルマのクリアまであと一歩まではいけたのですが、1点足りませんでした。
サンパウロ州を代表する名門同士が決勝トーナメントの1回戦で顔を合わせるため、試合前から多くの雑音が耳に届きました。私は選手たちと話し合い、自分たちのパフォーマンスに集中するようにアドバイス。自分たちにとって最高のサッカーをすることに集中し続けること、それで十分です(2試合合計3-0)。
「私の好みを理解し、ミネイロとジョズエという2人のセンターハーフは攻守のバランスを考えながら中央を巧みにカバーしてくれました」
監督やコーチは、状況のニーズと個人的な好みのバランスを考えなければなりません。当然、リストの上位にあるものを優先します。
サンパウロFCの監督に就任した際、チームは3バックを採用していました(「3-2-3-2」システム)。私は3バックが好きではありませんでしたが、システム変更の時間がなかった。必要に迫られて3バックを使い続けることにしました。
ただし、あまり知られていないことですが、微調整も施しました。
ブラジルでは、3バックでプレーする時、ボールとは逆サイドのウイングバックはミッドフィルダーとしてプレーします。しかし4バックを好む私は、異なることを指示していたのです。
例えば、左サイドにボールがあれば、左ウイングバックのジュニオールはウイングの位置まで上がり、3バックの1人(左センターバック)が左サイドバックとして左サイドをカバー。3人の最終ラインが全体的にスライドし、さらに右ウイングバックのシシーニョ(上)が右サイドバックとなって4バックにして守るのです。
選手たちは私が選んだ戦術的な微調整をすぐに消化してくれました。
中盤のダイナミックさも素晴らしかった。私はアンカー(守備的なシングル・ピボット)として選手を固定するのが好きではありません。そうした私の好みを理解し、ミネイロとジョズエという2人のセンターハーフは攻守のバランスを考えながら中央を巧みにカバーしてくれました。
戦術理解度の非常に高いダニーロがトップ下にいたことも大きなメリットをチームにもったらしました。
当時のサンパウロFCにいた選手たちは勝利に値し、才能があり、しかも知的だった。彼らの成功は当然でした(2005年7月6日と14日にコパ・リベルタドーレスの決勝をCAパラナエンセと戦って試合合計5-1)。
FIFAクラブワールドカップ(日本開催)の出場権を獲得した私は、物議を醸す決断を下します。大胆とさえ言える決断でした。クラブの幹部たちは、私に賛成してくれたわけではありませんが、私の意見を尊重してくれました。主力選手たちを国内リーグの終盤で休ませることにしたのです。
「対戦相手の監督のメンタリティーを理解し、率いるチームの選手が監督の哲学を理解しているかどうかも重要なポイント」
2005年のサンパウロFCは国内のタイトルを狙える立場になく、降格の危険性もなかったから可能な選択でした。
気まぐれで選手を休ませたわけではありません。選手たちの疲労度に基づいて決めたのです。ロジェリオ・セニ(上写真)、ファボン、ディエゴ・ルガーノ、ジュニオール、ダニーロ、ミネイロ、ジョズエには休息が必要でした。シーズンを通してフル稼働していたのです。選手には肉体的な休養だけでなく、精神的な休養も必要です。
クラブワールドカップに向けてはあらゆる角度から準備しました。
サンパウロ大学の睡眠研究室のメンバーを招き、選手向けのレクチャーを開催。いろいろとアドバイスを受けました。一つは、ドイツのフランクフルト経由で日本へ向かう際、機内で寝ないこと。また、明かりの変化に対応するために機内ではサングラスをかけ続けるようにとも言われました。
日本に到着した時、我々は疲れていましたが、すぐにはベッドに向かわず、ホテルの周辺を散策。最も適した時間に寝るためです。非常に細かいことですが、結果を出すためにはこうした戦略も必要なのです。
リバプールFCとの決勝(2005年12月18日開催)は、大きなチャレンジでした。対戦相手はサッカー界の巨人。まさに勝利に慣れているチームです。しかも我々と対戦するまでリバプールFCは、プレミアリーグで7連勝し、1失点もしていなかったのです。
ラファエル・ベニテス監督(2004-10シーズンに指揮。上写真)の手腕が光るチームでもありました。相手を分析する上では、対戦相手の監督のメンタリティーを理解し、率いるチームの選手が監督の哲学を理解しているかどうかも重要なポイント。リバプールFCは監督の哲学を十分に理解しているチームでした。
「どのような試合結果になろうとも、『我々は勝者だ』と伝えました 」
当時のリバプールFCはソリッドな「4-4-2」システムのチーム。彼らの組織を崩すにはジュニオールとシシーニョの攻撃参加が不可欠であり、相手に揺さぶりをかけるのに必要不可欠というのは明らかでした。
対するリバプールFCは稀有な資質に恵まれた選手ばかり。スティーブン・ジェラードは攻守に貢献できる選手であり、戦術理解度も非常に高かった。とりわけミドルシュートには注意が必要でした。長短のパスで攻撃をコントールするシャビ・アロンソも自由にさせたくない選手でした。201センチのピーター・クラウチ対策も万全。試合では85分からの出場でしたが、セットプレーの練習を何度もして備えていました。
決して楽な試合ではありませんでした。しかし、ディエゴ・ルガーノ、ファボン、エジカルロスという3バックが奮闘してくれたため、無失点で乗り切れました。
日本に出発する直前、『フォーリャ・デ・サンパウロ』紙でカルロス・ドラムンド・デ・アンドラーデのコラムを目にしていました。
「24時間365日、チャンピオンである必要はない」
そう書かれていました。
感銘を受けた私は、記事を保存することにしました。彼のコラムを選手に紹介すべきタイミングが訪れると思ったからです。
リバプールFCとの決勝が数時間後に迫った時、私はコラムを紹介。そして選手たちが懸命にプレーしてきたこと、そして最善を尽くしてきたことを思い出してもらい、どのような試合結果になろうとも、「我々は勝者だ」と伝えました。
余計なプレッシャーなど感じる必要はなかったのです。
彼らはすでに勝者でした。
数時間後、彼らは再び勝利を手にしました。世界チャンピオンになったのです(〇1-0リバプールFC)
翻訳:The Coaches’ Voice JAPAN編集部