キケ・サンチェス・フローレス
ワトフォードFC, 2015-16, 2019
何かの合図だったに違いない。
若いうちから何かを計画できる人は、周囲と違う特別なものを持っているに違いない。
小学6年生の時、校内でサッカーリーグを編成した。小学校5年、6年の合同チームと中学1年生で2チームをつくってリーグを運営した。当時の私は、選手の能力を見ながらノートとペンを片手に選手をチーム分けしていった。
目上の中学1年生が、年下の私に任せてくれた――。 これは、何かの合図だったに違いない。
小さな家だったが、家族行事があると親戚一同がよく集まる家だった。
ある土曜日の昼下がり、ドアベルが鳴った。 母は、私がセットしたボトルのフタを動かさないように来客者を迎えた。招き入れられた叔母のロラ(ロラ・フローレス:有名なフラメンコのダンサー&俳優)はピッチを特に気にしていなかったようだが、「この子ったら、こんな玄関先に物を置くのよ。本当に困る」と母は言った。
叔母は踏まぬように「私のスタンド」を飛び越えて言った。 「放っておきなさい。何かイメージしているものがあるから、この子はそれをつくっているのよ」
彼女は言っていることは正しかった。私の頭の中はサッカー、そして「何かをつくり上げたい」という思いでいっぱいだった。
「初めて影響を受けたチームはアリゴ・サッキ率いるACミラン」
9歳になった1974年に開催された西ドイツ・ワールドカップは、初めて見た公式大会だ。このワールドカップから私は大きな刺激を受けたし、今でも素晴らしい思い出の一つとして記憶している。なぜなら当時のスペインでは、1週間に1試合しか見られなかった。日曜の夜7時から放送されるリーグ戦だけだった。
私は、開会式からワールドカップに魅了された。マヨルカへの友達との旅行計画があったが、「旅行に行かないでずっと試合を見ていたい」と母に言った。母は私の意見を認めてくれた。実は、母はただ単に旅行に行ってほしくなかったのだが……。
バレンシアCFでプレーしながら(1984-1994シーズン所属)、私は指導者ライセンスを取得した。まだ25歳だったが、引退後もサッカーに携わる仕事をしたいと思っていたからだ。しかも私は、自分が進みたい分野を明確に理解していた。
監督としてのトレーニングはコーチング・アカデミーで始まったと言っていいだろう。1年単位のコースでさまざまなカテゴリーに関することを学び、各科目と各コースで素晴らしい講師と出会い、たくさんの影響を受けた。
1997年に引退した私がレアル・マドリードのアカデミーで働くことになるのは2001年だが、その間は実に充実した学びの期間だった。
メディアで働いていた私は短期での成果が求められ、しかも次から次へと成果が求められた。自分自身に厳しくなれたのだ。
「始まりは2冊のノート。その2冊で私はメソッドを生み出した。そこから全てが始まった」
メディア時代には、大事な試合を迅速に分析する必要があった。迅速に、しかも正しく分析するために私は、ラファエル・ベニテス監督のバレンシアCFとビセンテ・デル・ボスケ監督のレアル・マドリードを細部まで観察するようになった。当時の両クラブは、共にビッグクラブでありながら、似ても似つかない戦いぶりだった。
かつて、私が魅入られたのはアリゴ・サッキ率いるACミラン(1987-91&96-97シーズンに指揮)。初めて大きな影響を受けたチームだったかもしれない。そしてメディアに転身し、両チームをつぶさに分析することによって2つのプレー・スタイルを理解しようと努めた。
そして私は、バレンシアの地方局で30分のテレビ番組を担当し、土曜日の夜に行なわれた試合を戦術的に解説していた。
試合翌日の日曜朝、分析で使用する映像を決め、編集チームと共同作業を始め、3分のハイライトのために8時間もの作業を要した。だが一連の作業は、私にとって非常に有意義だった。
なぜなら、こうした日々を過ごした私は、テクニカル部門で働く分析スタッフを理解できるようになったからだ。彼らも試合のあらゆる局面を切り抜き、分析する。私は、コーチになる前にこうした作業を経験しておくのはとても大切だと思う。
現場に入り、初めて指揮を執ることになったのはレアル・マドリードのアカデミーのチーム。スペインの2部リーグで監督に就く選択肢もあったのだが、「自分はまだそのレベルに達していない」ことに気づいていたから断った。 そしてレアル・マドリードの育成部門における宝のような存在、『ディビシオン・デ・オノール』(18歳以下)所属チームを率いた。
当時も、ボルハ・バレロ、ルベン・デ・ラ・レー、キコ・カシージャなど、素晴らしい選手が多く在籍していた。
私の指導哲学の基盤は2冊のノートにある。バレンシアFC時代にチームメイトだった友人、ホセ・ルイス・オルトラからもらったものだ。
ノートを参考にして私はメソッドを生み出した。すべてはそこから始まった。 電話が鳴ったのはある夏のこと(2004年)。初めてスペイン・リーグの1部に昇格するヘタフェから監督就任のオファーを受けた。レアル・マドリードの関係者は「少しリスキーな将来」と捉え、私もそう感じていた。
監督という職に就くと、リスクを恐れるようになる。
環境の影響かもしれない。重圧の中を受けながら物事がどんどん進み、最終的には結果に頼るしかなくなる。何よりも結果が大事――。だから恐れるのかもしれない。
だが、自分を信じることも大事。100パーセントの自信があったわけではないが、「うまくいく」とは思っていた。
「リバプールとの大一番を乗り越えたことで優勝を確信した」
私の思いは別にして、「ヘタフェの監督を誰もやりたがらなかったから私がやった」という側面もあるだろう。1部に引き上げたジョス・ウリベ監督が別のチームと契約したため、昇格しながら、「監督不在」という奇妙な状況にヘタフェは置かれていた。しかも、候補者リストに次から次へと名前が書き込まれては消されていった。 そして、最後に残った勇敢な者がチャレンジを受け入れた――。私自身は、失うものが少なく得るものが多いとも感じていた。
今、振り返っても、ヘタフェで過ごした時間はキャリアの中においてベストだったと確信している(12勝11分け15敗の13位)。
翌2005-06シーズンからは古巣であるバレンシアCFの監督に就任するが、バレンシアCFもまた難しい状況にあった。 ラファエル・ベニテス監督(2001-2004シーズン)の元でリーグ優勝2回、UEFAカップ(現在のヨーロッパリーグ)も制していたクラブは未だかつてないほどのプレッシャーに包まれていた。ある意味、私にとってはヘタフェよりも複雑なプロジェクトだったのかもしれない。
人の野心をコントロールすることはできないが(スポーツダイレクターと対立したと言われている)、バレンシアCFで私たちが達成したことは高い評価を受けた。例えば、契約条件にあったチャンピオンズリーグ出場も2年連続でクリアしている(しかし、2007年10月に解任された)。
アトレティコ・マドリードの監督を務めたのは2シーズン弱(2009途中から2011シーズン)だが、非常に内容の濃い日々を過ごした。 (シーズン途中に就任し)連敗が続いたためにクラブ内の雰囲気は良くなかった。とりわけ最初の1ケ月半はエンリケ・セレソ会長と本当によく話した記憶がある。
「どうしたんだ?」と心配顔の彼に「まだシーズン途中。いい形でシーズンを終えるためにもプロセスを大事にしないといけません」と私が応じたこともある。
事実、それから1年もしないうちにアトレティコ・マドリードはヨーロッパリーグで優勝し、UEFAスーパーカップでもインテルに勝っている。クラブが勝ち始めるまでに時間を要しただけに我々は心から喜んだ。
ヨーロッパリーグ王者を決める決勝でフラムと対戦したのは2010年5月12日。私は勝てると思っていた。本来、監督はそうした考えを持たないものだが、リバプールとの準決勝(2試合合計2-2。アウェーゴール差)を乗り越えたことで優勝に対する思いは確信に近いものとなっていた。それだけリバプール戦を含めた道のりは厳しかったのだ。
就任当初から、チーム状況を改善するために必要な時間は惜しまないと決めていた。一方で選手たちは努力を積み重ねてくれた。そうして歯車がうまく回転し始めたからこそ、手にできた栄光だ。
「監督としての新たな可能性をプレミアリーグで見いだせた」
「監督業を最も楽しんだのはどこ?」に対する私の答えはワトフォードだ。
理由を説明しよう。
プレミアリーグは私にとって特別な舞台だ。すべての監督、すべての選手が働きたいのがプレミアリーグと言っていいだろう。
リーグ組織はしっかりと整備されており、対戦スケジュールもしっかりとフィックスされている。しかも、「人々がサッカーと共に生きている」ことを肌で感じられる。とにかく、プレミアリーグのすべてが魅力的なのだ。
心に残っているのは、FAカップの準決勝まで勝ち進んでウェンブリー・スタジアムで試合をしたことだ。途轍もなく名誉なことだと思う。昇格したばかりのワトフォードにとってリーグでの目標は1部残留。シーズン中盤を越えた2016年の2月には目標を達成できた。私はチームの基盤を築けた手応えを感じ、「この先、ワトフォードは年々、良くなるだろう」と思った(シーズン後に退任)。
個人的には、ワトフォードを率いるために異なる言語と文化の中に身を投じたことで監督としての新たな可能性を見いだせたと思っている。そして、プレミアリーグを経験したすべての人々が、成長を実感するだろう。
2004年にヘタフェで監督を始めた時の人物と今の私は違う。
何が待ち受けているかロッカールームに初めて行く時に何となく分かっていた。少なとも自分では分かっていると思っていた。バレンシア、レアル・マドリード、レアル・サラゴサで13年間プレーした経験が活かされたのだ。
時間が経つにつれて、監督であることと選手であることが全く違うことに気づく。
監督は、選手たちが信じて疑わずに自分についていけるよう自信を持って発言しなければならない。選手たち各自が持っている考えや感受性をまとめなければならない。
初めはみんな未熟だが、全ては進化するための工程であり、間違いや失敗から学ぶものなのだ。どのスポーツにもおいても言えるが、サッカーにおいても、実際の試合の中で数多くの判断に差し迫られる。
選手だけではなく、監督もそういった場面の連続なのだ。明白な判断もあれば、そうでないものもあり、その結果間違えることもあるが、その間違いから多くを学び成長する。
叔母が昔私について言っていたように、私にはやりたいことが沢山ある。ベンフィカでもUAEでもそうだったが、どのチームに対しても自分の出した決断に感情や気持ちがちゃんと付随しているかを私は大事にしている。
確かにそう全てがうまくいくわけではないが、自分でより良い運命を辿れるよう頑張るべきだ。
時間が過ぎ去り、終わりを迎えながら過去を振り返るその時、自分の下した決断に対して最小限の後悔を私はしたいと思うからだ。
翻訳:澤邉くるみ