ロビー・ファウラー
イースト・ベンガル:2020-2021
私は、「今まで見た中で最も才能のあるフィニッシャーだった」とたびたび言われます。
自分でも、あながち間違った意見だとは思っていません。
私(1975年4月9日生まれ)は選手時代、フィニッシュの精度を高めるために信じられないほど懸命にトレーニングしました。練習して身につけたことが自然なプレーに見えたのは、反復練習を繰り返したからです。練習を重ねたからこそ、自然にできるようになったのです。
努力することの意味も理解しているつもりです。私は、優れたフィニッシャーになるために必要とされるに足る時間を費やしたと思います。
指導者(2012年に引退)となってからも、同じ倫理観に従って努力しています。「自分が目指す場所にたどり着くにはハードに働き、努力しなければならない」、このことを実行するように心がけているのです。ですから選手の時と同じように、最高の指導者になるには相当の努力をしなければならないと考えています。
その信念があったからこそ、これまでのキャリアを歩いてきたのです。
偉そうなことを言うようですが、「ロビー・ファウラー」という名前はイングランドではそれなりの知名度があります。実績ではなく、名前に頼ってイングランドで仕事を得ることもできたでしょう。しかしそれは、私の望むことではありません。名前先行は好きではありませんし、いかなる仕事であっても実力に見合ったものを得たかった。だから、国外での働くことを選んだのです。
これまでに監督を務めた国は3つ。タイ、オーストラリア、インドで指揮しました。タイとオーストラリアのサッカーはレベルが思った以上に高かったのですが、インドはそうではありませんでした。しかしだから一層、インドでの指導はチャンレンジングでした。より高い指導力が求められていると考えるようにしていました。
2011年7月に選手としてタイのムアントン・ユナイテッドに加入したのですが、クラブが10月に監督を解任。ベテランとしてチームを牽引していた私はごくごく自然に選手兼監督を引き受けました。指導者としての道のりの始まりです。
しかし当時、コーチング・ランセンスを持たなかった私は「ライセンスを取得しなければいけない」と痛切に感じました。
「選手時代の私は、ゴールを決めるスペシャリストでしたが、ストライカーに特化したコーチにはなりたくないと思っています」
実は、現役生活が終盤に差し掛かった頃、コーチングという職業に興味を持ち始めていました。2007-08シーズンにカーディフ・シティFC(ウェールズ)に所属していた時には、コーチングスタッフと同じように考える自分に気づいていました。「選手と仲が悪い」ということはなかったのですが、チームバスでの席も変化。選手が座る後方ではなく、スタッフの座る前列の席に座っていました。指導者というものを強く意識するようになっていたのです。
本格的に勉強しようと決意したのはムアントンを任された時です。
兼任監督でしたが、それなりの仕事はできたと自負しています。3位で前任者からバトンを引き継ぎ、3位でシーズンを終えられました。もちろん、満足したわけではありません。イングランドに戻ってコーチングコースを受講することにしました。
指導者として実績を積み上げたいと思った私は、あらゆる資格を取得しようと思いました。帰国してすぐ、イングランド協会のBライセンスを取得し、その後数年かけて『UEFA Aライセンス』(2013年)と『プロライセンス』(2016年)を取得。『LMAディプロマ』(監督協会の認定する資格)も取得予定です。これも、より良い指導者になるための資格です。
タイでは、適切な人材を周囲に揃えることの重要性を学びました。素晴らしいチームが必要であり、素晴らしいチームを構築するにはポジティブな環境が必要なのです。
なぜなら、正しい答えを見つけるためには、周囲の人々との意義ある会話が必要なのです。私は、自分が他人より優れていると思ったことは1度もありませんし、周囲の人々には、私の意見に従うだけでなく、チャレンジしてほしいと考えています。それは私のチームにとって有益なこと。優れた頭脳同士の衝突は、より良いアイディアをもたらすからです。
ライセンス取得を目指していた数年間、リバプールFC(1993-2001シーズンに所属)やミルトン・キーンズ・ドンズFCを率いていたカール・ロビンソン監督の下でたくさんの経験を積みました。また、リバプールFCのアカデミーに所属する選手たちともよく話し、「子供たちを導き、アドバイスを与えたい」と考えて接していました。
芝生の上で実演する必要がある時には指導者仲間の要望に応えてプレーしました。私はじっと待っているようなタイプではありませんし、常に動き回っていたいのです。
「ロイは人身掌握術に優れた監督。彼は、一人ひとりの選手にどう接するべきか、選手によってアプローチを変えるべきということを理解していました」
私は、ある分野に偏った指導者にならないように心がけています。選手時代の私は、ゴールを決めるスペシャリストでしたが、ストライカーに特化したコーチにはなりたくないと思っています。
私が指導者として重視しているのは良い習慣を身につけること。ストライカーには常にゴールを狙う習慣を身につけてもらいたいですし、センターバックやGKには守備だけでなく配球に関しても良い習慣を身につけてもらいたい。そのためには、トレーニングを面白くし、エキサイティングなものにしなければなりません。前線から後方の全選手が良い習慣を身につけられれば、チームは必ずピッチの上で結果を出してくれると信じています。
私が目指すプレー・モデルは形を成しつつありました。「ポゼッションをベースにしながら適切なタイミングで縦パスを出す」、そういうアイデンティティーをチームに植え付けたいと考えていました。
こうしたプレー・モデルは、私がプレーしていた頃のリバプールFCで学んだこと。ポゼッションのためにボールを保持するのではなく、目的に向けてポゼッションしなければなりません。攻撃を前進させて多くのゴールを決めるために、適切にパスしてポゼッションするのです。
1990年代のリバプールFCに所属し、『スパイス・ボーイズ』と呼ばれた選手たちは戦術というものをさほど重視していませんでした。例えば相手が、どのような攻撃方法を採用しようがお構いなし。自分たちがしたいことばかりを追求していたのです。幸いなことに、自分たちがしたいことを実行できるタレントが揃っていたのですが……。
当時のリバプールFCはサポーターの期待に応えるほどは勝てませんでしたが、努力不足が原因だとは思いません。ロイ・エバンズ監督(1994-98シーズンに指揮)が素晴らしい環境を作り上げ、その中にいたのは素晴らしい選手だったと思います。
ロイは人身掌握術に優れた監督。彼は、一人ひとりの選手に適した接し方や選手によってアプローチを変えるべきということを理解していました。ロイは私の理解者であり、自信を持たせてくれた人物です。
後年、ロイは「もう1度やり直せるなら、選手にもう少し厳しく接するべきだろう」と回顧していますが、私にとって最高の監督は彼です。私に最も多くのゴールをきめさせてくれた指揮官だからです。
「リビングルームには2台のテレビが配置され、それぞれのモニターには別々の試合が流れていました」
ただしロイは、私が一緒に働いた監督の中では戦術面に明るいほうではありませんでした。しかし彼が師事してきたのは、故ビル・シャンクリー(1913年9月2日-1981年9月29日)、故ボブ・ペイズリー(1919年1月23日-1996年2月14日)、故ジョー・フェイガン(1921年3月12日-2001年6月30日)、ケニー・ダルグリッシュ(1951年3月4日生まれ)など、錚々たる面々。最高の師から学んできたのは間違いありません。
1998-99シーズンからリバプールFCに加わった故ジェラール・ウリエ(1947年9月3日-2020年12月14日)は変化の波をチームにもたらしました。彼が加入したのは、サッカーが大きく進化する時代。当時、時代に合わせてジェラールが持ち込んだ新しい手法に馴染めない選手が多くいたのも事実です。一方で我々は、ジェラールから試合の戦術についてだけでなく、より良いパフォーマンスを披露するための自己管理方法も学びました(2004年に退任)。
ジェラールからバトンを受けたラファエル・ベニテス(1960年4月16日生まれ)は本当にすごい人でした。
しかし、彼がどれほどの努力をしているのか、どれほど細部に気を配っているのを知ったのは2006年のある日。ようやく気づいたのです。
私がリバプールFCに復帰したのは2006-07シーズン。2006年のクリスマス頃、ラファの家を訪ねることになりました。
アシスタントコーチを務めていたサミー・リー(1959年2月7日生まれ)に頼まれ、ラファの近所に住んでいた私が次の対戦相手を分析したDVDを届けることになったのです。
クリスマスの休暇を母国で過ごすために彼の家族はスペインに戻っており、家には彼だけ。家の中に通された私は目を疑いました。
リビングルームには2台のテレビが配置され、それぞれのモニターには別々の試合が流れていました。さらに、起動している2台のノートパソコン上では、観戦している2試合のデータや戦術分析を見ていたのです。
「しかしクラブは再スタートを表明し、『私好みのチームを構築していい』という白紙の委任状を私はもらっていたのです」
私がDVDを渡すとすぐに、彼は視聴し始めました。
その時、偉大な監督になるのに必要なことを私は悟りました。「資格を取得して終わり」ではなく、試合で成功するために欠かせないすべてのツールを選手に与えるために監督は懸命に働き続けなければならないのです。
それが今はよく分かります。
プロになった頃の私は、「この人の下で働きたい」と思わせられる人柄の監督、「この人のために頑張ろう」と思わせられる魅力ある監督に惹かれていました。指導者となった私は、そのようなコーチングを実践してきたつもり。すべては、ポジティブな環境を作るために行なうのです。
私が尊敬するのはチーム全体をハッピーにできるマネジャー。指導者となった私はすべての選手に「チームに必要とされている」、「チームにとって重要な存在だ」と感じてほしい。そして必要な時に全力でプレーできるように準備を整え、常にプレーを渇望しているような状態に選手を導こうと手を尽くしています。そして「率いるチームにどうプレーしてほしいか」と考えながら芝生の上で多くの時間を費やし、コーチングライセンスも次々と取得。同時に信頼できるスタッフ集めにも励みました。
そして数年がたち、『ブリスベン・ロアーFC』(オーストラリア)を指揮する機会を得ました(2019年)。
イングランド外での挑戦を選んだのは、「自分の実力を証明できる場所に行く覚悟がある」ということを示したかったから。困難な挑戦を選んだことは自分にとっての誇りでもあります。
「素晴らしい時のリバプールFCと同様、ブリスベン・ロアーFCは目的を持った上でのポゼッションを重視していました」
かつて、オーストラリアでプレーしたことがあるため、Aリーグ(オーストラリア・リーグ)のことは知っていました(2010-11シーズンに『パース・グローリーFC』所属)。しかし、「未知の世界に足を踏み入れる」という感覚を強く覚えた記憶があります。
私が監督に就任した時、チームは非常に苦しい状況でした。就任前の2018-19シーズンを振り返ると、Aリーグの27試合で喫した失点数は71。リーグ最多の失点数を記録していました。順位も下から2番目の9位でした(4勝6分け17敗)。
監督になれば、多くの困難に遭遇することは明白でした。しかしクラブは再スタートを表明し、「私好みのチームを構築していい」という白紙の委任状を私はもらっていたのです。
私は自分の能力を信じていましたし、私とナンバー2であるトニー・グラント(1974年11月14日生まれ)はリーグを研究し、さらに選手を徹底的にスカウティング。我々の目指すサッカーを作り上げるのに必要な新戦力を補強し、チームを刷新しました。
我々がチームに植えつけたかったのはまったく新しいプレー・アイデンティティー。そのためにまったく異なるプレー・スタイルを導入し、素晴らしい結果を手にしました。
残念ながら、新型コロナウイルス禍のために2019-20シーズンは中断。それでも、我々が離れた時(2020年6月29日)のチームはリーグの4位につけ、22試合での失点はわずか24でした。
「私は2人の『ナンバー10』を起用するのを好み、4バックでも3バックでも指導できます」
我々が掲げたアイデンティティーは見ている人々にも伝わったと思います。リーグで最も多くのパスを成功させ、平均ポゼッション率とパス成功率も2位。相手陣内でのパス成功率においてはリーグトップでした。素晴らしい時のリバプールFCと同様、ブリスベン・ロアーFCは目的を持った上でのポゼッションを重視していました。そして実際にボールを保持し、危険なエリアでも保持することに成功したのです。
しかし新型コロナウイルスのパンデミックに直面した時、私は家に帰らなければならないと思いました。家族と離れ、地球の裏側にいることに抵抗があったのです。パンデミックがなければ、オーストラリアでの指揮をずっと続けたかもしれません。
数カ月後、『イースト・ベンガルFC』から監督就任オファーが舞い込みました(2020年10月9日就任)。
イースト・ベンガルは、1部に相当する『インド・スーパーリーグ』の下に位置する『Iリーグ』(実質2部)に所属していました。当時のIリーグは昇格も降格もない独立した存在でしたが、オーナーが変わり、豊富な資金を得てインド・スーパーリーグに参戦することになったのです。
「とてもエキサイティングなプロジェクトだ」と思った私は、トニーと一緒に新たなチャレンジに踏み出しました。しかし現実は厳しかった。インド・スーパーリーグを戦うに値する十分な戦力は整っていませんでしたし、準備期間はたったの10日間でした。
それでも、2020-21シーズンの平均ポゼッション率はリーグのトップ3入りを果たし、7試合負けなしという快挙も達成しました。11チーム中9位(3勝8分け9敗)という戦績は決して褒められたものではありませんが、上位との差は僅差でした。
ただし正直に言えば、インド・スーパーリーグを戦うには準備不足でした。見通しが甘かったと言わざるを得ません。
「サッカー選手であることは、私にとっては仕事ではありませんでした。好きなことにフルタイムを捧げてきただけです」
甘さはピッチ外でも見られました。
例えば、新型コロナウイルス感染を避けるために選手とスタッフは隔離生活を送っていたのですが、グラウンドと宿舎の距離は車で1時間。往復で2時間です。1日2回のトレーニングを実施しようとすれば、毎日4時間も車に乗ることになります。ですから、1日1回のトレーニングしかできませんでした。しかしライバルたちはしっかりと準備し、理想に近いトレーニング環境を整えていたのです。
言い訳はしたくありませんが、現場が混乱したのはある意味、当然でした。
新オーナーに権利を完全に譲渡することを明記した書類に前オーナーが署名しなかったため、クラブはカオスの中に置かれることになったのです。結局、新しくオーナーになるはずだった人物はプロジェクトを遂行することなく離れ、さらに混沌とする未来しか見えませんでした。
2020-21シーズンを終えた私は離任。翌2021-22シーズンをイースト・ベンガルが最下位で終えたのは、クラブの状況を考えれば当然と言えば当然でした。
指導者となっていろいろな経験を積んだ私は多くのことを学びました。多くの学びを得ることで自分が信頼できるプレー・スタイルの構築にも成功しました。私は2人の「ナンバー10」を起用するのを好み、4バックでも3バックでも指導できます。サイドにオーバーロードを作り出し、適切なエリアでボールをキープするのが私のスタイルです。
私は見ていて楽しいサッカーが好きですし、自分のチームにも美しいサッカーをしてほしい。しかし何よりもまず、私は勝者でありたい。私のチームは勝ちます。
サッカー選手であることは、私にとっては仕事ではありませんでした。好きなことにフルタイムを捧げてきただけです。そしてそれは、指導者となった今も同じ。好きなことを仕事にできて私は幸せです。
私は風変わりなキャリアを歩んできましたが、いいキャリアでした。
しかし、そろそろ見習い期間を終えて次のステップに進みたいと思います。
「次」がどこの国でも、どこのクラブでも、全力で取り組みます。
翻訳:The Coaches’ Voice JAPAN編集部