ルベン・バラハ
バレンシアCF:2023〜現在
フットボールをプレーする感覚と似たような仕事なんてありません。でも監督は、選手の感覚に最も近い職業です。
芝生のピッチを踏みしめ、日々のトレーニングを大切にしながらグループを作り上げる。私はそうした日々をとても愛しています。
2010年の夏、バレンシアCFを最後のクラブとして私(1975年7月11日生まれ)は現役生活に終止符を打ちましたが、実は引退を意識し始めた頃からある計画を練っていました。「次に何をするか」を考え始めていたのです。そして、「監督になりたい」という思いを強く持っていることに気づきました。
指導者に道に入ることに抵抗はまったくありませんでした。しかし、最初はとても苦労しました。
新しい環境に飛び込んで馴染むには変化を受け入れる覚悟が必要。また、それまでは気にも止めなかったことを気にしなければなりません。
そうしたことに私は、アトレティコ・マドリードで気付かされました。
引退した私はコーチングスクールを受講。その時、ゴレゴリオ・マンサーノ(1956年8月5日生まれ)に出会い、彼は私に、コーチングスタッフの一員になるチャンスを与えてくれました(2011年6月)。
私は、「すべきこと」を明確にして決断するタイプです。もちろん、成功することも失敗することもありますが、大切なのは決断に対して自信と情熱を持って取り組むことだと信じています。
選手時代の私は実に多くの監督たちと共に働きました。特に重要なのはラファエル・ベニテス(下写真)との出会いだと思います。彼がバレンシアCFを率いた時、私はリーグ優勝2回(2001-02と03-04)と1回のUEFAカップ優勝(2003-04)を経験し、非常にスペクタクルな3年間を過ごしました。
ラファは、私の監督としてのベースを広げてくれた人物と言っていいでしょう。
彼は多彩な戦術を操る監督。非常にソリッドな守備をベースにしてアグレッシブにプレッシャーをかけ、スピーディーなカウンター・アタックを仕掛ける非常に魅力的なチームを作り上げました。同時に、日々の仕事の仕方やグループのマネジメントも学ばせてもらいました。
「ラファエル・ベニテスやほかの監督から学んだことをコピーするだけの監督になるつもりはありません」
ラファからは目に見えるものから見えないものまで、多くのことを学びました。
ラファは分析を活用する指導者のパイオニア的な存在でした。バレンシアCFのパテルナ練習場に8台のカメラを設置してトレーニングを撮影。選手には逃げ場などありませんでしたし、常に100パーセントを出し切らなければならない環境でした。
選手の体調面も徹底的に管理しました。体重や体内の水分量を毎日計測するだけでなく、オフの行動にも気を配っていました。
今では当たり前になった選手のローテーションもラファから学びました。
「シーズン中の全60試合で最高レベルのプレーを披露できないのであれば、40試合で最高レベルのパフォーマンスを見せればいい」
そう彼は言っていました。
ただし、ラファエル・ベニテスやほかの監督から学んだことをコピーするだけの監督になるつもりはありません。私が率いるチームには私自身のアイディアを落とし込みたいと思っています。
私が監督としてのキャリアをスタートしたのはバレンシアCF(2013-14)。アカデミーの選手たちを率いるチャンスをもらいました。トップの監督を目指す上で育成年代の指導を経験しておくのは必要なことです。
バレンシアCFの『フベニール』A(U-19)を指揮したのは大きなチャレンジでした。プレー・コンセプトを整理し、自分自身のメソッドを作り上げ、チームを少しずつ成長させていく日々でした。
バレンシアCFで2年を過ごしたあと、エルチェCFのトップチーム監督就任オファーが舞い込んできました(2015年7月15日に就任)。
監督として新たなステップに踏み出すことになりました。プロサッカーは育成年代とは異次元の世界であり、成長と結果の両方が高いレベルで求められる世界。両立できなければ、監督を続けることはできないのです。
「言うまでもなく、チームで最も重要なのは選手。違いや解決策を生み出すのは選手なのです」
非常に有意義な挑戦でした。とても困難なシーズンを過ごすことになりましたが、プロの世界でチームを率いるチャンスを得られるのは簡単なことではありません。
実は、私が就任する1週間前、エルチェCFは1部から降格をリーグから命じられました。財政難が理由でした。しかも、制裁の詳細がなかなか決まらなかったため、『2部A』(2部相当)を戦うのか、『2部B』(3部相当)まで降格するのか分からないような状態でプレシーズンを過ごしたのです。まるでジェットコースターに乗っているかのような感覚でした。
結局、2部Aでのプレーが決まるのですが、裁定が下った時にはプロ契約選手はたったの5人。急いで選手を補強し、ようやく選手が揃ったのはリーグ開幕の10日前でした。
予想もしなかった船出でしたが、どうにか状況をコントロールできたのは「選手だった経験」をフルに活かせたからだと思います。引退間もない頃だったのがプラスに働いたのでしょう。さまざまな問題をチームは抱えていましたが、それらを選手と共有し、共感できたからです。
言うまでもなく、チームで最も重要なのは選手。違いや解決策を生み出すのは選手なのです。彼らは、勝利という監督の目標を達成するための手助けをしてくれます。
非常に苦しい状況でしたが、我々は昇格プレーオフまであと一歩まで迫りました(13勝18分け11敗)。初監督ながら、勝ち点57を積み上げてクラブの期待には応えられたと思います(プレーオフ圏内まで勝ち点7差の11位)。
しかし、続投のオファーは断りました。多くのことを経験した私は、別の可能性を探るべきと感じていたのです。
無所属になってクラブからのオファーを待つのは初めての経験でした。自分で選んだことではありましたが、不安がなかったと言えば、嘘になります。しかし、エルチェCFからオファーを受けたという経験が私を楽観的にしてくれました。「2度目のチャンスもやってくるだろう」と思えたのです。
2回目のチャンスをもたらしてくれたのもエルチェCFとの契約をまとめてくれたラモン・プラネス。ラージョ・バジェカーノのスポーティング・ダイレクターとなっていた彼が私を招いてくれました(2016年11月8日就任)。
結果を見れば、ラージョでの経験はネガティブなものと言えますが、多くのことを学び、知識を増やせたのはポジティブなこと。すべての監督が同意してくれると思いますが、チームがポジティブな雰囲気に包まれている時の仕事は非常にシンプル。逆に、ネガティブな雰囲気の時こそ、多くを学べるのです。
私に託されたラージョの環境はかなりハードなものでした。
経験豊富な選手を多く擁して2015-16シーズンに挑んだラージョでしたが、18位に沈んで2部降格。多くの期待を背負っていたのですが、期待を大きく裏切る結果となったのです。
2011-12シーズンからの5シーズンを1部で過ごしたため、2部降格という現実をクラブと選手が簡単に受け入れられるはずもありません。
とりわけ、2部リーグはシビアな戦いの連続であり、求められるフィジカル強度がとても高い。強いメンタリティー、そしてハングリー精神が欠かせません。しかし降格を直視できない選手たちは2部リーグの戦いにフィットすることができませんでした。
監督は、自分の思いやフィロソフィーを選手たち伝えられると確信した上でチームを率いなければなりません。選手たちが監督を信じ、同じ方向に向かってくれる、そう確信できなければいけないのです。ラージョの監督に就任した時の私はそうでしたが、結果は出ませんでした。
「自分が無力であること」、「自分がいるからといって困難な状況を好転させられるわけでない」と当時は痛感させられたもの。私だけでどうにかできるものではなく、いろいろな要素の影響を受けるからです。
ラージョ・バジェカーノを去ったあと(2017年2月20日に離任)、スポルティング・ヒホンからオファーを受けました。ヒホンも2部に降格したばかりのチーム(2016-17シーズンを18位で終えて降格)。しかもシーズン途中での就任……。
ただし、迷いはありませんでした(2017年12月12日就任)。
チームに所属して働く際には1年、あるいは6カ月などの短期間でできることにフォーカスすべきではないと考えています。長期的な視点に立って考え、クラブと共に成長する道を模索すべきなのです。
「楽観的にも楽観的にもなりすぎず、あくまでも自然体ですべての状況に対応していくのが大切だと思っています」
ラージョ・バジェカーノとの違いは、献身的な選手が多くいてくれた点。明確なチームの基準を与え、戦うステージに対するしっかりしたアイディアを持ってもらいました。選手が私を信頼してくれたお陰もあり、一時は20近くもあった首位との勝ち点差をひっくり返し、33節で首位に立ちました。
しかしながら、我々は最後の最後で昇格を逃しました。ライバルに追いつくためにシーズン後半でとてつもないパワーを消費したつけをシーズン終盤に払わされたのでしょう。最後の5試合で1勝4敗と大失速。自動昇格圏内を争っていたチームにも敗れ、4位となって昇格プレーオフに回ることになりました。しかし、プレーオフを戦うチームはガス欠状態でした(準決勝でバリャドリードCFに2試合合計●2-5)。
失意の結末を経験し、翌2018-19シーズンに向けては7人ものレギュラー選手がチームから離れて行きました。2017-18シーズンの昇格に失敗した原因の一つには選手層の薄さがあったのですが、移籍によって選手層がさらに薄くなったのです(2018年11月11日に解任)。
楽観的にも楽観的にもなりすぎず、あくまでも自然体ですべての状況に対応していくのが大切だと思っています。監督は、クラブの決断を尊重しなければなりません。
例えば、私との契約を打ち切るとクラブが判断した時も同じ。同意することはできないかもしれませんが、尊重し、受け入れなければなりません。このような環境は、監督にとってある意味当たり前のことなのです。
解雇されなかった監督を見たことがありますか?
当時を振り返り、監督という職業の特性を考えれば、難しく、複雑なチーム作りや目標を目指さず、よりシンプルなチーム作りや目標を掲げれば良かったのかも知れません。
しかし、私はそうしません。
なぜなら、チャレンジを好むからです。
翻訳:石川桂