シウヴィーニョ
コリンチャンス:2021年5月23日〜2022年2月3日
今でも、まるで昨日のことのように思い出します。
多くの人から、音楽のように繰り返される警告。それは、まるで試合の時にイングランド・サポーターが奏でるチャントのようでした。
「Sylvinho, the pace in the Premier League is very high (シウヴィーニョ、プレミアリーグのリズムは本当に速いぞ!)」
このフレーズは、アーセナルに加入した当初に理解できた唯一の英文でしたが、言葉の心配はしていませんでした(1974年4月12日生まれ)。私がロンドンへ渡った時、私が知っていた英単語はほとんどなし。食事のことや文化も何も知りませんでした。でも、時間が解決してくれると分かっていたのです。
私が心配していたのはイングランドのプレー・リズムに適できるか、だけでした。アーセナルでプレーするには、プレー・スピードを上げなければならないと覚悟していたのです。
コリンチャンス時代の私は、ブラジル流のクラシックなサイドバック。自分のテリトリーである左サイドにおいて非常に攻撃的に振る舞っていました。試合でのアクションのほとんどは攻撃に関すること。守備の仕事はさほど多く要求されませんでした。
そのようにプレーできたことにはブラジル・フットボールのスタイルが関係しています。イングランドのプレー・スタイルよりもずっとゆったりしていたのです。
1990年代の私は、コリンチャンスに4年半在籍(1994〜1999年)し、ブラジル代表にも招集されていました(代表デビューは2000年5月23日)。
当時は、国外でプレーするならイタリアになるだろうと考えていました。ブラジルにいる若い選手たちの多くはセリエAの試合をよく見ていましたし、『カルチョ』(フットボールのイタリア語)のビッグクラブで成功を収めているブラジル人選手がたくさんいたからです。実際、インテルとの契約話が私にはありました。
割って入るように現れたのがアーセン・ベンゲル(1996-2018シーズンまでアーセナルを指揮)でした。
所属チームでの試合数日前、クラブの幹部から「アーセナルの監督がサンパウロにいること」、「ブラジル・リーグの試合を何試合か観戦すること」、そして「私と夕食を共にしたいと言っていること」を告げられました。
試合後、私はアーセンと夕食を共にしました。最初の瞬間からとても楽しかった。通訳の助けを借りながら、多くのことについて意見交換。最初の会談を通じ、彼が他の監督とは違うこと、そして高い教養と優れた人身掌握術を有した素晴らしい人間であることに気がつきました。
「私が心配していたのはイングランドのプレー・リズムに適できるか、だけでした。アーセナルでプレーするには、プレー・スピードを上げなければならないと覚悟していたのです」
「君のプレーを気に入っている」とアーセンは言ってくれ、さらに「アーセナルに連れて行きたい理由」も明かしてくれました。
当時、アーセナルのディフェンスはイングランド代表選手だけで構成されていました。GKはデビッド・シーマン、右サイドバックはリー・ディクソン、センターバックにはマーティン・キーオンとトニー・アダムス、そして左サイドバックはナイジェル・ウィンターバーンです。
アーセナルは素晴らしいクオリティーの選手に恵まれていましたが、プレミアリーグの多くのクラブが「アーセナルの攻撃をどのように受け止めるべきか」を理解し始めているとアーセンは感じていたのです(1998-99シーズンはリーグ2位)。ですから彼は、新たなオプションとなり得、攻撃に幅を与えられるサイドバックを探していました。
そんな彼の目に止まったのが私だったのです。
アーセンは夕食の席で私の身体能力について語り、私に関するいくつかの情報も教えてくれました。例えば、私のスピードや加速力に関することです。
私自身が知らないようなことばかりでした。
その後、話はトントン拍子に進み、1999年6月30日、アーセナルと契約。アーセナルにとって史上初のブラジル人選手となりました。
私がクラブに馴染み、チームに溶け込めるようにアーセンはいろいろと助けてくれました。プレー面に関しては、プレミアリーグ特有のスペシャルなリズムに適応するように促してくれました。
一方で、「攻撃的なスピリットを忘れないでほしい」と彼から要求されましたが、イングランドに適した守備を学ぶ必要もありました。守備を学ぶためのトレーニングを実施してくれたのがヘッドコーチだったパット・ライス(1949年3月17日生まれ)。主なテーマは、スプリントして守備に戻ること、足を入れてから身体をぶつけること、など。私は体重も軽く、ハードなディフェンダーではありませんでしたが、パットのおかげで多くの点を向上できてより良いディフェンダーになれたと感じています。
「ハイバリーで受けた衝撃は特に凄まじかった。タッチラインのすぐ側に観客がいるような感じでした」
チームに加入して数カ月後、努力の甲斐あってレギュラーの座を勝ち取れました。異国での困難を乗り越え、監督、コーチのおかげでより完璧な選手となれ、感謝しかありません。
プレー・リズムに慣れ始めると、イングランドのフットボールをよりエンジョイできるようになりました。
『ハイバリー』(2006年まで使用したアーセナルのホームスタジアム)で受けた衝撃は特に凄まじかった。タッチラインのすぐ側に観客がいるような作りでした。しかも、ボールがタッチラインを割ると、すぐにリスタートできるように観客がボールを素早く渡してくれるのです。一体感が本当に素晴らしかった。
ホームでのプレーは他よりも2倍楽しめました。
アーセナルの選手は、ヨーロッパのトップレベルで多くのことを勝ち取ってきた選手ばかり。彼らから直に学ぶチャンスを得られたのは大きな幸運でした。偉大な選手の隣で常にプレーできたのですから、向上しないわけがありません。
デビューまで少し時間を要しましたが、自分の成長を促せる環境だったと思います。しかも私にとっては、毎回のトレーニング・セッションがテストのようでした。高いレベルにいる選手たちに追いつき、追い越さなければ出番を得られませんし、トレーニングで追い越したことを証明しなければならなかったからです。
「彼は実績にあぐらをかかず、選手を威圧することなくコントロールしていました。最近は、彼のような監督を目にすることが増えましたが、当時はほとんどいませんでした」
チームメイトによる数え切れないほどのサポートも私を後押ししてくれました。私はクラブ最初のブラジル人選手でしたが、孤独を感じたことは一瞬もありません。だからこそ、早く適応できなのでしょう。
しかも、クラブで起こるすべての出来事にアーセンは目を配り、参加していました。どんなに細かい事も見逃さず、すべてコントロールしていたと言ってもいいでしょう。
新設されるアーセナルのトレーニング施設の計画にもアーセンは参画していました。そんな監督がいるとは知りませんでした。
彼はすべてを掌握していたのです。
「選手たちがどのようにしてトレーニング施設に来るか」
「どこにスパイクを置いているか」
「どんなレストランに行って何を食べているか」
彼によってすべてのことが完璧にコントロールされていました。
彼はいろいろな国を訪れ、日本でも監督を務めた非常に経験豊富な人物。それでも彼は実績にあぐらをかかず、選手を威圧することなくコントロールしていました。最近は、彼のような監督を目にすることが増えましたが、当時はほとんどいませんでした。
「アーセナルで実際に私が目にしたアーセンの仕事ぶりは、ブラジルで夕食を共にした時に予見できたものだった気もします」
私が最も驚いたのは試合前のルーティーン。そうした習慣はブラジルには存在しなかったからです。
当時のプレミアリーグでは夜開催の試合は珍しく、15時から17時くらいの間に試合開始となるのが通常スケジュール。チームは、午後の試合に備えて前日にホテルへ入り、チーム一同で街を散策したりします。その後は、ホテルの大きな部屋でストレッチや呼吸法のトレーニング、という感じで過ごして試合に向かう準備を整えていきます。
すべてを決めていたのはアーセンですし、効果はあったと思います。
ルーティーンを続けていると、試合に対するメンタリティーが変わっていきました。試合の何時間も前から試合に向けて集中できるようになったのです。
アーセンには実に多くの優れた点がありましたが、私が強く感銘を受けたのは強化部を含めたフロントと協力していたこと。当時では珍しいことだったと思います。
彼は選手の能力を見抜くことに長け、チームの一員になれる選手、チームで能力を発揮できる選手を完璧に理解していました。「技術的に非常に優れている」も彼が獲得した選手に共通したことでした。
アーセナルで実際に私が目にしたアーセンの仕事ぶりは、ブラジルで夕食を共にした時に予見できたものだった気もします。
あの時、身体的なストロング・ポイントを高く評価してくれる一方、そうした点を彼はさして重視していなかったのです。アーセンが大切にしていたのは私のフットボールであり、私のプレー・スタイル。その点で一致したからこそ、守備の不安やリズムの違いなどはさておき、彼は私と契約したのです。
監督となった私もアーセンと同じような評価基準を持っています。
サッカー選手を評価する上で最も重要な要素はプレー・スタイルと考えています。プレー・スタイルを維持できる環境で努力を続ければ、いかなる問題にも選手は対処できるようになるものです。
翻訳:石川桂