ガレス・サウスゲート
イングランド代表監督, 2016-現在
今でも手紙を保管しています。
13歳のときに届いた一通の手紙を思い出の品として保管しています。モチベーションを維持するために、です。
サウサンプトンのトレーニングに2年半ほど参加していた私に「練習契約解除」を知らせる手紙が届きました。
当時、サウサンプトンのアカデミーには、若くて優秀な選手がたくさんいました。同学年(1970年生まれ)にはアラン・シアラーやウォレス兄弟(ロドニー&レイモンド)、その上の学年にはフラニー・ベナリやマット・ル・ティシエ(サウサンプトン一筋で209得点)がいたのです。当時、サウサンプトンの育成部門は非常に優れていました。
私はずっとプロのサッカー選手になりたかったので、契約解除されたことはとても残念でした。でも、私が甘かったのも事実。「プロになれるかどうか」を左右する、その時期の重要性を十分に理解していなかったのです。僕はただショックを受けただけでした。
今にして思えば、いい経験だったのかもしれません。解除されたことで心が折れてしまったわけではありません。次のチャンスを待つことにしたのです。
次のチャンスはクリスタル・パレス時代に訪れました。
15歳の時からU-18チームでプレーしていた1989年、2年間の練習生契約をオファーされたのです。その時、私には2つの選択肢がありました。それは、「学業に励む」か「クリスタル・パレスでプレーして週給27ポンドを稼ぐ」というものです。
迷うことはありませんでした。
ただし、トップクラスの学業成績をずっと残していたのに、練習生になると成績は一気に下降しました。
当時の私はフルタイムのトレーニングに苦労しながらも、日々、成長している手応えもありました。一方で監督となった現在の私は、すべての選手が「自分は十分な力があるのか」と大きな不安を抱えていることを理解しています。試合のある毎週土曜日、一部の選手はこう考えているのです。
「今日はどうすればいいんだろう? 十分な力を発揮できるのだろうか?」
10代の私にはそのような覚悟がありませんでした。
「オジー・アルディレスやチャーリー・ニコラスのような人たちと対戦したことを覚えています。彼らとのプレーを通じて多くを学びました」
振り返れば、覚悟のない理由も分かります。まず、身体的な成長が人よりやや遅く、フィジカル的に苦しんでいたことが挙げられます。そして、「契約解除された経験」がマイナスに影響していたように思います。
しかも当時、クリスタル・パレスは黄金期を迎えていました。1989-90シーズンから1部リーグに復帰し、同シーズンのFAカップでは決勝に進出(マンチェスター・Uと対戦して3-3、0-1)。しかも1990-91シーズンには、1部リーグを3位で終えました。これは現在でも最高の順位です。マーク・ブライト、イアン・ライト(アーセナルでは221試合出場128得点)、ジェフ・トーマス、アンディ・グレイなど、実に素晴らしい選手が揃っていました。
若い選手が割って入るのは容易ではなかったのです。
最初の3、4シーズンはリザーブ・リーグで100試合以上、出場したと思います。驚くべき数字です。当時は、トップチームから外れたベテラン選手がリザーブ・リーグに出ることが多く、若手の居場所ではなかったからです。
リザーブ・リーグでは、オジー(オズワルド)・アルディレス(元アルゼンチン代表)やチャーリー・ニコラス(元スコットランド代表)などの名手と対戦したことをよく覚えています。若い選手はコーチから学ぶだけでなく、試合に出場したり、偉大な先輩と一緒にプレーしたりすることでいろいろなことを学べるからです。
しかし、そうした経験を積んでも、パレスのトップチームに加わるには十分な準備とは言えませんでした。
当時のロッカールームは「熊の巣穴」だったのです。
ジョン・サラコやクリス・パウエルのようなユース出身者だけでなく、スタン・コリモア、イアン・ライト、スティーブ・クラリッジのようなセミプロ・リーグからはい上がってきた選手がいました。さらにジェフ・トーマス、アラン・パーデュー、クリス・コールマンのような下位リーグからのし上がってきた選手もいたのです。
みんなハングリーでした。パレスでプレーするために戦ってき選手ばかりでしたし、誰もが本当に強い性格の持ち主でした。毎日が戦い……。グループに受け入れてもらうには、生き残らなければなりません。その先にしか、楽しさはないのです。
当時の私は上昇志向がさほど強くなかっただけに、いい刺激を受けました。思えば、私のキャリアにおいて非常に重要なタフさ、適応力、リジェリエンス(反発力)を身につけられたのは、このパレス時代だったのです。
「トレーニング場に戻ると、試合で汚れたユニフォームを着てピッチの周囲を走らされました」
ロッカールームを出ても楽なことは一つもありませんでした。来る日も来る日もギリギリまで追い込まれていました。本当に厳しかった。現代では、コーチング方法やオーバー・コーチングに関する議論が盛んにされています。しかし、25年ほど前はそんな考えはまったくありませんでした。
でも、「やりすぎだ」と感じたことはありません。むしろ、そういう経験を通じて私はたくましくなったと思っています。
下位リーグ所属のブリストルのユースに負けたのも忘れ難い出来事の一つ。ミニバスに乗ってクリスタル・パレスの練習場に戻ったら試合で汚れたユニフォームを身につけ、ピッチの周囲を走らされました。
ある意味、何も考えていなかったのかもしれません。それでも当時の我々は厳しさをはね返せるほどの身体的な強さに恵まれていました。土曜日に90分プレーして火曜日にまたプレー、そして土曜日にまたプレー。月曜日が回復にあてられるということはなく、クロスカントリーみたいなスケジュールでした。
戦術的、技術的に向上するためにできたこともあったでしょう。しかし私は、おそらく一生使える心理的技術を授けてもらったと考えています。
翻訳:The Coaches’ Voice JAPAN編集部