ジョー・コール
チェルシー, 2003-2010
「風変わりな選手」
これは僕の物語だ。チームの一員として初めてプレーしたのは11歳の頃。その時、自分が特別なものを持っていると感じた。誰にもサッカーを教わらず、ただボールと戯れていただけなのに、私は人と違うものを生み出せたからさ。
僕はずっと、見るよりもプレーするのが好きだった。残念ながら、サッカー好きな父親ではなかったから、チェルシーの試合に連れて行ってくれたのは友人の家族。しかも、憧れの試合を見ていたはずなのに、ボールとプレーする自分を想像するほうが好きな子だった。小学校低学年の頃、校庭で目にした光景が僕をプレーの虜にしたんだ。高く蹴り上げたボールが着地して大きくバウンド。落下して来たボールを、その子はおでこで操った。
同じことをするために熱中し、それ以降、ボールは僕のそばにあった。壁に当てたり、リフティングしたり、ボレーシュートをしたり……。ボールに触っていられれば、それで良かったんだ。
それは、1990年のイタリア・ワールドカップまで続いた。 初めて、家族と一緒に見たワールカップで僕は変わった。サッカーという競技を通して人と人がつながり、国民が一体となった光景に釘付けになった。人目もはばからず涙するポール・ガスコインを見ながら、自分もいつかイングランドのためにプレーしたいプレーしたい。
いや、イングランドを代表してワールドカップでプレーしいたと強く思った。
かつてのイングランド・サッカーは今のものとかなり違う。「10番」らしくプレーする選手はいなかったし、フォワード、中盤、ディフェンスというラインの意識さえ薄く、ポゼッションを賞賛する声は聞かれなかった。厳しい状況になるとボールを前線へやワイドへ蹴り、最終的にはクロスを上げてヘディングでフィニッシュ。そういう感じだったんだ。
今のイングランド・サッカーは随分と良くなったよ。今でも自分のプレーには誇りを持っている。でも、可能であるならば、メダル、お金、思い出など、すべて失っていいからやり直したい。
自分で言うのもなんだけど、僕は風変わりなんだ。キャリアを通じて僕は「できること」よりも「できないこと」ばかり気にしていた。
それが僕のサッカー人生だ。でも、そうしたことのすべてが引退後のキャリアに役立つだろうと思う。
「真実なんて関係ない。世界が変わり、急に『マーク』されるようになった」
キャリアを歩み始めた僕はある問題に直面したんだ。チーム選択さ。チームに所属してたった6カ月で、ロンドンはもちろん、それ以外の数チームからオファーが届いた。世界が広がり、景色は一変した。マンチェスターユナイテッドの練習に参加し、次はエバートン--。とは言え僕は、試合を楽しんでいただけ、という感じだったんだけど。 そして、僕が魅力を感じたのはウェストハムのアカデミー。
素晴らしい選手やコーチが大勢いたからだ。僕は直感を信じた。そのときは、フランク・ランパード、リオ・ファーディナンド、マイケル・キャリックがチームメイトになるなんて思いもしなかった。ただ直観に従っただけさ。
でも、「周囲の目」とのつき合いは簡単ではなかった。タブロイド誌が一面で「(コールの)週給は5000ポンド」とデタラメ記事を報じたのは僕が15歳のとき。「総理大臣より稼いでる」とも書かれた。当時、僕がもらっていたのは電車賃だけなのに……、でも、真実なんてどうでも良くなった。
注目され、瞬く間に世界が変わった。それだけさ。
周囲からの大きな期待を感じたけど、それはピッチ外でのこと。ピッチ内ではいつも通りさ。マンチェスターユナイテッドとの試合に出てプレミアリーグでデビューを果たしたのが17歳。でも、不思議と緊張しなかった。
「僕はプロ選手。単なる1試合にすぎない。」 『オールド・トラッフォード』という舞台もさほど気にならなかったね。
ファースト・プレーでヤープ・スタムを蹴ったことで厳しくチェックされるようになったけど、怯みはしなかった。「よし、始まった。やるぞ」くらいにしか思わなかった。
初めてワールドカップに出場したのは2002年の日韓ワールドカップ。ちょっとしか試合には出られなかったけど、たくさんの刺激を受けた。ユナイテッドに加わることになるリオ・ファーディナンドやユナイテッドの一員としてチャンピオンズリーグに出場している選手たちと一緒にいると、「僕も次のステージに進みたい」という思いが湧き上がってきた。
当時の僕は「ウェストハムの一員としてチャンピオンズリーグに出たい」と思っていた。2001-02シーズンを7位で終えていたから、無謀な夢にも思えなかった。新シーズンに備えて4人ほど補強すれば、手が届くかもと楽観視していたどだ。
でも実際には、新戦力よりも退団選手のほうが多く、戦力不足は明らかだった。素晴らしいディフェンダーだったイアン・ピアースを前目のポジションで6週間もプレーさせるほど、切羽詰まっていた。21歳でキャプテンに指名されていた僕も必死にもがいたけれど……。
「出会った瞬間、この人が次のレベルにクラブを引き上げると感じた」
最終的に、2002-03シーズンのウェストハムは勝ち点を42まで伸ばしたけど、足りなかった。降格が決まった。
「次に進まないといけない」そう思った。「イングランド代表のレギュラーになりたい」「チャンピオンズリーグでプレーしたい」「とにかく目の前の相手に勝ちたい」 でも、ウェストハムでは不可能だった。
そしてクラウディオ・ラニエリ(当時はチェルシーの監督)に出会い、彼に惹かれた。彼のサッカーの見方が好きだった。 2003-04シーズンを前にして僕は決心した。『キングス・ロード』にあるカフェで父と代理人が話し、チェルシー移籍の交渉をした。数時間で話はまとまった。 いい決断だったと今でも思う。
当時、チェルシーは大きく変わりつつあった。ロマン・アブラモビッチが会長となり、ワールドクラスの選手をかき集めていた。きっと、僕の名前は「獲得リスト」の上位になかったはず。でも気にしなかった。なんと言われてもいい。僕の思いは一つ。「チェルシーでプレーする」それだけだった。
チェルシーでの初シーズンは素晴らしかった。国内リーグで2位、チャンピオンズリーグでもベスト4。でも、ラニエリ監督は途中で解雇されてしまったんだ……。
実は、2002-03シーズンにUEFAカップを制したFCポルトから強い印象を受けていたんだ。いや、ジョゼ・モウリーニョ監督に感銘を受けた、というのが正しいかもしれないな。2004-05シーズンからモウリーニョがチェルシーを率いることを聞き、彼がクラブを次のレベルに引き上げることを確信していた。
実際、僕は彼に魅了された。ただし、周囲の認識と異なるようだけど、モウリーニョは僕に厳しかった。僕自身、彼に食って掛かったこともあるんだ。でも、彼の全ての行動には意図があった。批判したかったわけではなく、僕が全力でプレーするように操作していたんだ。例えば、出番を奪い、次の試合で20分の出場時間を与えれば、「最高の20分を僕が披露する」と知っていたんだよ。
対照的に、「ランパードは世界で最もいい選手だ」とモウリーニョがメディアで激賞したことがあったね。自分に自信を持ち切れていなかったランパードに対してそう発信することによってランパードは気が楽なり、能力を発揮できるようになったんだと思う。当時は僕だってランパードの変化に驚いたほどさ。モウリーニョは選手のベストを引き出す天才かもしれないね。
「そして再び、僕は サッカーと恋に落ちた。 分かるかな?」
「モウリーニョが僕を成長させた」と言われているんだけど、僕もそう思う。さっきも言ったけど、僕はただうまくなりたかっただけ。「ガスコインのようにクリエイティブな選手になりたい」と思い、そうしていただけ。サッカーを楽しみたかったんだ。でも、うまくプレーできれば、毎週土曜に「勝ち点3」を手にできるほど、プレミアリーグは甘くないんだ。結果を出さなければ、監督だって途中でクビになる。だから僕だって変わらなければいけないと思った。
でも、本質的に人を変えるのは簡単ではない。試合に出れば本性が出てしまう。そういうもんだろう? モウリーニョにいくど注意されても、ときどき自分を優先してしまった。だから僕は、「ごめん、やるべきじゃなかった!」としょっちゅう手で合図を送ることなった。
自分を変えるのは難しい。
確かに、モウリーニョは僕を「いい選手」にしてくれた。「チェルシーにとってベスト」になれたと自分でも思う。
でも、2009年に全てが変わった。十字靭帯を断裂してしまったからさ。以降、自分らしさを取り戻せなかった。「もっともっと上にいきたい」と思っていた僕には受け入れがたいことだった。でも、スピードとアジリティーという武器を取り戻すことはできなかった……。
ケガをしてからも、記憶に残るようなプレーをしていると思う。2009-10シーズンからリバプールに移籍し、『コップ』(リバプールの熱狂的なファン)のためにゴールを決めたし、2011ー12シーズンに在籍したリール(フランス)ではチャンピオンズリーグにも出場した。でも、33歳になるまでの6年間はずっとケガを心配していたんだ。恐る、恐るプレーしていたようなもんさ。
33歳になってコベントリー・シティー(3部所属)に移籍したとき、ようやく自分の体と向き合えるようになった。 暗号を解いたかのような気持ちだったんだけど、振り返れば、「自分の状態を理解した」ということだったんだろうね。
そして再び、僕は サッカーと恋に落ちた。 分かるかな?
状態の悪いピッチ。火曜の夜(3部の開催日)の試合。数千人しかいない観客。ラフなプレーの数々。同じ火曜日の試合だったけど、『スタンフォードブリッジ』(チェルシーのホーム)で開催されるチャンピオンズリーグとはまったく違うものだった。でも、僕だってかつての自分ではない。仕方ないよね。
その後、タンパベイ・ミューティニー(米国)でプレーし、サッカーのことをいろいろと学べた。僕は、ベテラン選手からコーチになる。心の準備はできている。聞く準備も、学ぶ準備も--。今の僕なら全てを受け入れられる。 最初はミスもするだろうけど、ミスを認めて直すよ。プレッシャーやケガを乗り越えた経験を活かせるかもしれないけど、それだけが僕の武器じゃない。過去の栄光にしがみつく気はないし、変化し続けるサッカーと戦い続ける覚悟もある。
情熱を持ちながら生きていけるのは幸せだよね。だって、情熱を持っていれば先に進めるからだ。さあ、次のステップへ進もう。
翻訳:澤邉くるみ