フランシスコ・ルフェテ
スポーツダイレクター(エスパニョール)、2018-現在
「私はアリカンテという田舎町のどこにでもいる子供でした」
FCバルセロナ(以下、バルサ)のようなクラブが「私と契約したがっている」と知った時はとても興奮しました。と同時に、「自分がいかに大きなチャンスを与えられたのか」を理解しました。プロのサッカー選手はすべての子供にとっての夢です。
育成部門の階段を上がるたびに、夢が現実味を帯びます。そして、チャンスを絶対に逃すまいと日々戦うのです。
下部組織をバルサの一員として過ごした私(1976年11月20日生まれ)は、トップチームの素晴らしい攻撃陣たちを間近で見てきました。フリスト・ストイチコフ、ルイス・フィーゴ、ロナウド、ロマーリオ(下写真)……。彼らのようになりたいと夢見たものです。
同時にバルサとチャンピオンズリーグで戦っていたマンチェスター・ユナイテッドのライアン・ギグスやポール・スコールズも記憶に残っている選手です。
バルサの選手をそばで見ていると、自分も成功できると信じられました。
彼らと一緒にトップレベルでプレーできると思えたのです。
1996-97シーズンの監督は故ボビー・ロブソン(1933年2月18日-2009年7月31日)。アシスタント・コーチにはジョゼ・モウリーニョがいました。
(1995ー96シーズンの最終節にトップ・デビューし)プレシーズンをトップチームで過ごして私は、1996-97シーズンはトップで活動できると思っていました。しかし、このシーズンをバルサBで過ごし、翌1997年の夏には、「十分なプレー時間を確保するためにはバルサを去り、レンタル移籍を受け入れなければならない」のが明らかになりました。
私にとっては困難な時期でした。クラブに6年在籍し、夢の実現まであと一歩でしたから……。
2部リーグ所属のCDトレドというクラブへのレンタル移籍の手続きを進めてくれたのはバルサです。そして、「(私が)ある一定の時間以上プレーしなければならない」という条項をトレドとの契約書に盛り込みました。契約条項を守らなければトレドは、さらに多くの金銭をバルサに支払うことになります。そのため私は、若手時代の大きく伸びる時期に選手として必要なプレータイムを得られたのです。
「クライフは『ラ・マシア』に来ると、選手たちの名前を呼び、声を掛け、『勉強の調子はどうだ?』と質問していました」
バルサで過ごした時間を通じて多くのことを学びました。
育成年代では、絶対に習得すべき「フットボールの基礎」に出会います。それは、すべてのチーム、すべての監督が求めるもの。つまり、ボールを正しくコントロールしてパスすることです。
私はさまざまなレクチャーを受けましたが、故ヨハン・クライフ(1947年4月25日-2016年3月24)によるレクチャーは本当に偉大なものでした。彼が教えてくれたのは戦術コンセプトだけではなく、プレーにおける人間的側面の重要性です。
練習場にやって来るとクライフは、U-15やU-16の選手たちを集めて『ロンド』(ボール回し)をさせていました。そして『ラ・マシア』(FCバルセロナの選手寮)にも足を運び、選手たちの名前を呼び、声を掛け、「勉強の調子はどうだ?」と質問していました。
トップチームの監督であり、選手としても監督としてもレジェンドと呼ばれる人物が全員の名前を覚え、興味を持ってくれていたのです。それは私たちにとって信じられないことでした。
ですから2013年、バレンシアCFのアカデミーで統括部長になった私がまず始めたのは、育成組織の全選手を覚え、できる限り多く話し、彼らのトレーニングを見ることです。
私は、クライフの振る舞いがバルサを成功に導いたと心から信じています。ですから今後、どこで働くことになっても彼から学んだことを実践していくつもりです。
バレンシアCFでプレーするチャンスを得た2001−02シーズン、バレンシアCFはUEFAチャンピオンズリーグの決勝で2年連続して敗れた直後。しかも、イタリアのSSラツィオへ移籍したガイスカ・メンディエタの後任として加わった私は大きな期待を背負うことが明らかでした。それでも、バレンシアCFのようなビッククラブに求められたならば、ノーと言うことはできないものです。
チャンピオンズリーグの決勝を2度戦った選手を含め、バレンシアCFには経験豊富な選手がたくさんいました。人々は、「決勝で負けた」というネガティブな側面しか見ないものですが、そうした経験を通じて選手は多くを学び、「なぜ負けたのか」も理解します。
例えば、バレンシアCFは自分自身をよく知る選手のグループを擁していました。そのグループに小さなクラブで結果を残してきた22歳から26歳の若い選手たちが合流し、既存の選手たちはチームに活力と自信を与えてくれたのです。
「ベニテスは、フットボールをより深く私達が理解する手助けをしてくれました。ピッチ上で起きる現象が『なぜ』起こるのか、そして『どのように』起きるのかを理解させてくれたのです」
ラファエル・ベニテス(下写真)は完璧なタイミングで監督に就任したと思います(2001-04シーズンを指揮)。当時の彼は、自らのキャリアをステップアップさせている途中でした。
彼と初めて話した時、「彼とスポーツダイレクターが私を必要としている」と言ってくれたのを覚えています。その言葉が私に、バレンシアCFのようなビッグクラブでプレーする自信を与えてくれました。彼とはとてもいい関係を築けましたし、それは今も続いています。
そのシーズンは少し遅く始まりましたが、日々のトレーニングを通じて積み上げているものがはっきりと認識できました。トレーニング強度も試合と同じくらい高く、チームの成長を日々、実感できたのです。
ベニテスは、すべてがしっかりとオーガナイズされていることを好み、彼の好みは試合やトレーニングにも反映されていました。
当時のチームは非常に強固な守備から鋭いカウンター攻撃を仕掛けるスタイルでしたが、それだけでなく、良いフットボールを展開し、試合中のさまざまな局面を正しくコントロールできていたのです。
もし、彼がもたらしてくれた多くのものの中から1つだけ挙げるならば、「私たちがフットボールをより深く理解する手助けをしてくれた」とするでしょう。ピッチ上で起きる現象が「なぜ」起こるのか、そしてそれは「どのように」起きるのかを理解させてくれました。我々はチームとしても個人としても大きく成長できたのです。
2001-02シーズンの鍵となるゲームはエスパニョールとのアウェーゲーム(17節)だったと思います。あの時期は監督もプレッシャーにさらされ、チームの調子も今ひとつでした(5勝9分け2敗)。この試合も、不甲斐ないプレーに終始して前半を0-2で終了。しかし幸いなことに、私の2得点などもあって3-2と逆転して勝ちました。この勝利をきっかけにチームは持ち直し(以降、16勝3分け3敗)、リーグタイトルを獲得します。クラブにとって実に31年ぶりの栄冠でした。
しかし翌2002-03シーズン、我々は同じ成功を掴むことはできませんでした。ヨーロッパの大会ではある程度の結果を残せたのですが、国内リーグでは成績があまり伸びず、チャンピオンズリーグの出場権獲得にも失敗(リーグ5位)。シーズン前の期待が大きかっただけに、大きな失望を味わいました。
失望のシーズン後、ベニテスは回復に向けて大きな役割を果たしてくれました。そして我々は、優勝したあとの気持ちと優勝を逃したあとの気持ちを味わい、その両方を比較できるようになっていました。であれば、2003-04シーズン後に優勝の気持ちを味わいたいと思うのは当然のことです。
2003-04シーズンの終盤、我々は「特別なことを成し遂げるチャンスがある」と感じていました。UEFAカップ(現在のヨーロッパリーグ)でも勝ち進んでいた我々には優勝のチャンスがありました。そして重要なことは我々が勝ち方を知っていたことです。2シーズン前のリーグ優勝のほうが大変だったと思えたほど。我々には経験があり、自信もありました。ですから、プレッシャーのかかるシチュエーションに対しても成功者としてのメンタリティーで戦えたのです。
予感は、徐々に現実のものとなっていきます。
そして国内リーグとUEFAカップの両方を制覇したのです(下写真はUEFAカップ優勝時のもの。ルフェテは2005-06シーズンまでバレンシアCFに所属)。
30歳でコーチングライセンスを取得し、引退したのは34歳の時(2011年)。キャリア終盤の4年間、ベンチにいる時の私は監督になったつもりで試合を見ていました。ベンチに座りながら試合を分析し、さまざまな状況において「自分ならどうするか」を考えることで自分のフットボールに対するアイデアを発展させていったのです。
そして、多くの経験を積み重ねてきたからこそ私は、クラブが抱えるさまざまな問題に対して最適な解決策を見出す力をつけられたと思っています。
我々にとって最大のチャレンジとは、もの物事がうまくいっていない時にこそ、プロフェッショナルとして真価を発揮すること。ネガティブな状況を一変させるのです。
それこそが、選手として、アカデミーのダイレクターとして、そしてスポーツダイレクターや監督として私が楽しんできた挑戦です。
「フットボールは、タワーマンションのようなものです。最上階に住むことに慣れているプロ選手にとって、下に降りて1階の生活を経験するのはとても大切なことです」
2018年、3部リーグ所属(実質4部)のUDイビサで監督になることを決断しました。就任したのはシーズン終盤(4月18日)でしたが、クラブの状況を好転させ、なんとか昇格プレーオフに食い込んで昇格するために私を必要としてくれたのです。
人生には時々、こうしたチャンスが訪れますし、活かさなければいけません。
チャレンジは非常にうまくいき、あともう一歩のところまで進みましたが、最後はPK戦で負けました(プレーオフの第2ラウンド敗退)。
当時の我々はいい仕事をしたと思っていますし、クラブが成長していくためのベースを築けたと自負しています。
リーガ・エスパニョーラのような「最上階」の生活に慣れているプロ選手にとって、「下の階」に降りて行ってそこでの生活を経験するのはとても大切だと思っています。
フットボールとは、階数の多いタワーマンションのようなもの。UDイビサでのプロジェクトによって、安い給料で生活しながらより高いレベルを目指して努力する選手たちのこと学べました。多くの学びがありました。
「下の階」に下がれば、「最上階」にはないこと、「最上階」とは異なることを学べますし、トップレベルに戻った時、多くのことを還元できるようになります。下がることで、プロフェッショナルとして、そして人間として一段階成長できるのです。
私は今、かつて所属していたエスパニョール(2006-2009シーズンに所属)でスポーツダイレクターを務めています。選手や監督ではありませんが、変わらないこともあります。それはフットボール界に生き、呼吸し、フットボールを身近に感じられることです。
「自分が必要とされる大きな目標を掲げたプロジェクトに参加したい」
それが私の人生における最大のモチベーションです。
サッカーも、人生も、すべてを捧げるべきものだと思います。
私は、フットボールから与えてもらったものを還元し続けていきます。
同時にフットボールは、私が最も愛する「遊び」なのです。
翻訳:石川桂