リカルド・ロドリゲス
浦和レッズ, 2021年〜現在
2007年頃、私はマラガでファン・ムニス監督を第2監督(ヘッドコーチ)として支えた後、同クラブのスポーツダイレクターに就任しました(2008‐2010シーズン途中まで)。 その後、2010年の夏、英語とイギリスのフットボールを学ぶために私はイギリスに向かいました。賃貸の家で過ごしたこともありますし、異なる街、異なる国の人とルームシェアしたりもしました。
あの時間があったからこそ多くの事が起きたのです。あの時、つまり苦労した時間には間違いなく価値があったと言えます。 そうしなければ、日本で働くチャンスも得られなかったでしょう。 ですから、あなたにアドバイスさせてもらえるのであれば、 「監督にとっては、2言語以上、特に英語を操れることはとても大切である」と言いたい。 それは、新たな扉を開く手助けとなるでしょう。
日本への扉が開き始めたのは、私がタイで過ごした最後の数週間でのことでした。 3年間(2014~16年)、タイのいくつかの主要クラブで指揮をとった後、2016年の中頃に代理人と話し合い、 主に日本のマーケットに向けて私の仕事に関する売り込みを開始したのです。
タイ時代には、監督として日本のチームと何度か試合をし、日本チームのキャンプにも数回参加しました。 そうした経験を通じ、日本でキャリアを積みたいと強く思うようになっていたのです。
「監督にとって2言語以上、特に英語を操れることはとても大切である」
クラブに提出するプレゼン資料には、フットボールに関する提案も記しました。 チームを率いた際に私が掲げるフットボールと考えを、可能な限り理解してもらえるものにしたかったからです。 私が目指すのは、ポジショナル・プレーをベースに、能動的であり、激しいプレッシングを実行できるサッカー。 さらに、若い選手を積極的に起用するといった考えも盛り込みました。
プレゼン資料の作成が終わり、私の代理人が動き始めました。 そして、2017シーズンが始まる数ヶ月前、私に興味を持つクラブが現れました。徳島ヴォルティスです。 当時の徳島は日本の2部リーグ所属でした。 ほどんどの人々、とりわけ国際的にはほぼ知られていませんが、素晴らしい職場になるだろうと私は直感したのです。
徳島から受けた最初の依頼は、チームに対する分析レポートの作成でした。 そのため、ある試合をスタジアムで観戦するために日本へ招待されました。 実は、試合を観戦するためだけでなく、直接会ってお互いの人間性を知り合うためでもあったのです。 日本には、(仕事の上でも)人間性を非常に重んじる文化があります。 判断する上では、プレゼン資料のチェックだけでは十分でなく、私に直接会って「感じる」ことが重要だったのです。
徳島の強化部長から「私に決めた」と伝えられたのは、そういった全てのプロセスを経てからでした。 以降、リーグ戦の最終戦を見るために街に残り、次のシーズンに向けた準備を開始しました。
その後、選手たちと共に迎えた新シーズン初日に起こったことは永遠に忘れません。強化部は私の考え方をしっかりと理解しているからこそ、私と契約したのです。しかし、選手たちは違いました。
「トライアスロンは私をさらに強くしてくれました」
トレーニング開始前、チームに落とし込みたいアイディアを集めた短い映像を選手たちに見せました。 映像は、私が率いてきたチームで私のアイディアが反映されたプレーや他チームでも似た考えが表現されているプレーを編集したものです。 映像を目にした選手たちの反応は驚きに満ちていました。 「このサッカー、大好きです。試合時間のほとんどを守備に費やし、少ないセットプレーやカウンター・アタックで得点を奪って勝利を目指すサッカーよりずっと好きです」と言う選手もいました。
そして、選手以上に驚いていたのはチーム専属の記者たちでした。 初日のトレーニング終了後には、彼らから立て続けに質問を受けることになります。 走り込みや筋力トレーニングではなく、「ボールがメイン、主人公(のサッカー)」であることにショックを受けたらしいのです。
『プレー文化』の変化は少しずつですが、ピッチ上でも見られるようになっていきました。 選手が努力してくれたからであり、選手がスタイルを実現したいと強く望んでくれたからです。 徳島はライバルチームを圧倒するチームへと変貌していき、多くの得点機会を生み出しました。 それでも、守備に人数をかけるチームに勝てないことが幾度かありました。
よく思い出すのはカマタマーレ讃岐との試合です。21回の決定機をつくり、3度もバーに嫌われました。 しかもゲーム終盤にゴールを決められ、敗れたのです。 まさに、徳島の課題を浮き彫りにするような試合でした。
しかし、翌日に徳島と讃岐によるサブ同士の試合を行なうと、あることが起きました。 試合終了後、讃岐の監督が近づいて来て、「昨日の試合では奇跡的に徳島に勝てた」と言うのです。 さらに、「普通は、あのプレーを続けていれば、最後は徳島が勝つものだ」とも。
「選手たちの反応は驚きに満ちていました。 『このサッカーが大好きです、監督』
最初から全てがうまくいったわけではありませんが、 「正しい道を歩んでいること」を疑ったりはしませんでした。 もちろん、監督にとって結果は非常に重要ですが、「正しい道」を忘れてはいけません。 自分自身がやっていることに自信を持ち、疑ってはいけないのです。 監督が疑いを抱けば、それは選手にも伝わります。 すると、プレー・アイディアに対する疑念が選手の間で広がるのです。
私がすべきは、チャレンジと継続--。 この信念を常に持ち続けてきた私をトライアスロンという競技がさらに強くしてくれるのです。
私がトライアスロンのトレーニングを始めたのは3年前。 それ以前から取り組んでいたランニングと自転車に水泳を追加しました。 時間を見つけは車に乗り込んでビーチへ行き、海で数キロ泳ぐようにしたのです。 ウェットスーツを着ていたので気温に左右されず、徳島ではほぼ毎日泳いでいました。 ビーチでリフレッシュしてからクラブに戻ると、何時間も集中して仕事に取り組めたのです。
浦和(埼玉県)では、海がとても恋しくなります。 泳ぐ場所が海から大勢の人がいるプールに変わり、環境は大きく変わりました。 今でも毎日数時間をトレーニングに費やし、新しいことに挑戦していますが、もし時間が許せば、トライアスロンにまた参加したいです。
「私のスタイルと伝えたいプレー・アイディアを浦和は評価してくれました。 最もそこに、私はやりがいを感じたのです」
トライアスロンは私に、「集中」以外にも重要なものをもたらしてくれました。 サッカーから数時間ほど離れて自身のトレーニングに集中することで、 新しいアイディアや問題解決の方法を見つけられたのです。 物事をよりクリアな状態で見られたからこそ、得られた成果です。
その一つは、次シーズンに向けた「発見」につながります。 「ゲームの支配者になるというアイディアは正しい。 しかしそこからさらに我々のプレーを成長させなければいけない」と気づけたのです。
勝利を手中に収めるには、敵陣でも相手を支配し、叩きのめすことに注力するだけではなく、 「自陣でのプレー向上」も必要でした。 具体的には、ゴールキーパーを含めたビルドアップで相手を自陣に引き込み、 攻撃するためのスペースを敵陣につくり出す必要があったのです。 自陣でのプレーと敵陣でのプレーの両輪を使えるようになると、我々は相手にとって予測不可能なチームへと変貌し、多くの試合で勝てるようになっていきました。
4年目となる2020シーズン、チームは成熟期を迎えました。多くの選手がチームに長く在籍したため、我々の伝えたいことがしっかりと落とし込めた成果でもあります。 2020シーズンは本当に素晴らしく、多くの試合で勝利しました(25勝9分け8敗)。 特に、多くの勝利をアウェー挙げられたことが上位進出(J2優勝&J1 昇格)に貢献してくれたのです。
「日本でチームを変化させるという幸運を私が得ただけではなく、日本とその文化が私を変化させてくれました」
「一つの成功」が私を浦和へ導いてくれたのです。 そして今回の契約は、徳島とサインした時とは大きく異なっていました。 私が強いやりがいを感じたのは、「彼ら」が私を招聘してくれたからです。 今回は、2017年に徳島に対してしたこと、つまり「私がクラブに対してどんなことを提供できるか」を説明する必要はありませんでした。 浦和が、私のスタイルと伝えたいプレー・アイディアを求めてくれたのです。
それは大きなチャンスであり、挑戦でもあります。 契約当時、日本の「ビッグクラブ」は複雑な状況に置かれていました。 しかし私は、彼らのプレー・スタイルを変えられると信じていました。 我々は必ず浦和のアイデンティティーである魅力的でダイナミックなサッカーを取り戻せると確信していたのです。
我々は初日から、天皇杯優勝とリーグ戦のアジアチャンピオンズリーグ圏内に向けて一つになって戦いました。 そして2021シーズン後、私は『J1優秀監督賞』に選ばれました。 しかし、予想さえしていなかったことです。 なぜなら、リーグ戦で優勝どころか上位にも食い込めなかった外国人監督が選ばれることなど通常では起こり得ないからです。我々のリーグ最終順位は6位でした。 しかし、私の同僚たちは浦和の「変化のプロセス」を評価してくれたのです。 この評価基準には、プロセスに対する日本文化の考え方が表れていると思います。 彼らはプロセスを信じて評価するのです。
私は、日本でチームを変化させるという幸運を私が得ただけではなく、日本とその文化が私を変化させてくれたと思っています。 私は、スペインにいた時と比べてとても落ち着いた監督になりました。 イギリス時代のリカルドは今のリカルドになんと言うでしょう!
私は、あの頃と同じ情熱を今でも持ち続けています。 だからこそ、落ち着きを手に入れた私はこれから現れるいかなる挑戦にも立ち向かえる準備ができていると感じています。
翻訳:石川桂