ヴァンデルレイ・ルシェンブルゴ
ブラジル 1998-2000, レアル・マドリード2005-2006
レアル・マドリードでの監督デビュー戦は、とても奇妙なものだった。
レアル・ソシエダとの試合は、2004年12月12日にホーム、『サンティアゴ・ベルナベウ』で開催されていたのだが、爆破予告があったために84分の時点で中断された。そのため、2005年1月5日に1-1のスコアから再開され、6分間だけ行なうことになったのだ。その試合が私のデビュー戦となった。奇妙な状況ではあったが、ジネディーヌ・ジダンがPKを決めて2-1として、スタートを勝利で飾れた。
私の指導者キャリアは奇妙デビューよりもかなり前から始まっていた。多くの指導者がそうであるように、私の物語もケガによって始まった。とは言え私は、現役の時に体育の教員免許を取得しており、「教えること」に興味を抱いていた。
ヒザを負傷したのはプロとして8年ほどプレーしたあとのことだ。十字靭帯を断裂した私は、引退することを決めた(1980年)。当時は、現代のような医療体制は望むべくもなく、以前のようなプレーができなくなったからだ。
引退して間もなく、リオデジャネイロのアメリカFC(ブラジル)からアントニオ・ロペスのアシスタント・コーチ就任のオファーを受けた。1983年まで在籍することになるアメリカFC において、私の指導者人生は思いがけない形でスタートすることになった。
その後、ブラジルのさまざまなクラブで指揮し、いろいろな経験を重ねながら数々の成功を手にしてきた。
そして1998年、『セレソン』(ブラジル代表の愛称)を率いることになる。
ブラジル人監督にとって代表監督は究極の目標だ。誰もが憧れる。
1999年には我々はコパ・アメリカを制し、南米チャンピオンに輝いた。無敗で大会を駆け抜け、素晴らしいサッカーを見せられた。
ベストマッチは決勝だ。宿敵ウルグアイを3-0で破った。
この試合は、キャリアの中で最も重要な試合の一つだったと思う。
「レアル・マドリッドのドレッシング・ルームはまるで国連のようだ」
優勝によってブラジルは名誉を取り戻し、3年後に予定されていた日韓ワールドカップの優勝候補に目されるようになった。実際、ルイス・フェリペ・スコラーリ監督の下、ブラジル代表は優勝する(2000年のシドニー・オリンピック後に退任)。
数年後、私は『白い巨人』こと、レアル・マドリードに向かう。ブラジル人の監督就任など、想像さえできないクラブだ。事実、後にも先にも監督を務めたブラジル人は私だけだ。
レアル・マドリードからの電話を受けたのは2004年の終わり頃。ガルシア・レモンの後任に指名されたのだ。
正直に言えば、私自身も驚いていた。
しかし、貴重な体験を得られると思ったし、チャンスを逃す気はまったくなかった。
私は監督就任の話を誰にもしなかった。当時、レアル・マドリード所属だったブラジル人のロベルト・カルロスやロナウドはブラジル代表で一緒に働いた仲だが、彼らにも打ち明けなかった。
しかし、意外な形で「機密」は漏れてしまう。マドリードに向かう彼らにブラジルの空港で偶然、出会ってしまうからだ。彼らは、クリスマス休暇を終えてスペインに戻る途中だった。
「爆弾予告のために試合は中断された」
「監督、ヨーロッパに行くんですか?休暇ですか?」と聞かれた。
私は「ノー」と答え、「君たち2人の監督になる」と続けた。
2人は唖然としていた。
奇妙なデビュー戦に臨む私と同じような感じだった。
爆破予告のために中断された試合を途中から再開する――。私にとっても、選手たちにとっても、まったく未知の状況だった。
まず、勝利に向けて精神状態を整えることを心がけた。
そして、通常とは異なる集中的なウオーミングアップを行なった。勝ち点3を目指して戦える時間は10分もないのだ。1秒だって無駄にせずに100パーセントの力を発揮しなければならなかった。
ピッチに出る前、ドレッシング・ルームで私は選手全員を集めた。しかし、戦術はもちろん、いろいろなことにアプローチすることはできなかった。就任直後、しかも6分あまりの試合時間ではできることはわずかだ。手短に指示した。
「ジダンの残してくれたメッセージこそが、最高の報酬の一つだ」
「勝つためにも、ジダン(上写真)とロナウドにボールを集めてほしい」
この2人には、特殊な状況でも勝利をもぎ取れる独特な能力に恵まれていると感じていた。スタンドのサポーターも同じだった。いつでも、彼らのような選手がボールを保持するとスタジアムは歓声に包まれる。だから、一瞬でも早く彼らにボールを渡すべきだ。
彼らがボールを持てば、何かが起こる。
実際、ボールを持ったロナウドが見事な個人技で突破を仕掛けてPKを獲得。そしてジダンがしっかりと決めてくれた。すさまじい高揚感だった。
レアル・マドリードのようなクラブではすべてが異なる。そして巨大なクラブであるため、すべてのことが誇張される。良いことも悪いことも――。
異論もあるだろうが、ヨーロッパと南米のサッカーは同じではない。だからこそ、適応するための時間が必要になる。それぞれに特徴があり、その一つひとつを理解するために努力しなければならない。
当然、選手も同じではない。確かに、サッカーは共通語と言っていい。しかしサッカー選手には文化的な差異がある。例えば、スペイン人選手とブラジル人選手、そしてイタリア人選手は同じようにプレーしない。すべてのサッカー選手は自分の方法で任務をこなすが、こなし方は出身地の影響を映し出す。
その点、レアル・マドリードのドレッシング・ルームは国際連合のようだ。さまざまな国籍の選手たちに自分を理解してもらう必要があり、しかも素早く理解してもらわなければいけない。
「なぜ、ロナウドを外した?」
当時、選手との確執をメディアはこぞって報じたが、誰とも問題はなかった。選手たちは、私が望んでいることを完璧に理解してくれていた。そして、私がクラブを去ることになった日、それを確信した。私の携帯電話にジダンが残してくれたメッセージを通じて。
当時の私は、ラウル・ゴンサレスとロナウドという2トップの背後にジダンを配置した。そして、ジダンの周囲には彼をサポートするためにスピードのある選手を配した。
「監督、レアル・マドリードを去ることになり残念です。私はあなたと働くことで多くのことを学びました。フランス代表がワールドカップで優勝したときのポジションに戻してくれたことに感謝しています」
レアル・マドリードでは、いい印象を残せたと思う。例えば、就任後は7連勝を記録している(低迷するチームを2位に引き上げた)。しかし、ジダンの残してくれたメッセージこそが、最高の報酬の一つだ。
レアル・マドリードでは本当に時間がなかった。それこそが唯一にして最大の問題だった。すぐに結果を出さなければいけなかったし、いいプレーを見せなければいけなかった。
つまり、大きなプレッシャーにさらされることになる。
クラブを追われることになる原因は、フロレンティーノ・ペレス会長との「話し合い」だった。
2年目のヘタフェ戦(2005年12月3日)後のことだ。
「レアル・マドリードで続けることもできたが、時間がなかった」
ヘタフェ戦では、デヴィッド・ベッカムが57分に退場していたが、ロナウドの得点で1-0とリードしていた。85分、ディフェンスを強化するためにロナウドに代えてトーマス・グラベセンを送り込んだ。
ロナウドはサポーターにとってアイドルであり、ベルナベウに駆け付けたサポーターはブーイングで反意を示し、フロレンティーノ・ペレス会長も受け入れなかった。
試合後、電話をかけてきたペレス会長が言った。
「なぜ、ロナウドを外した?」
「ロナウドはすでに役割を果たしてくれた」と私は返答し、「試合は終盤に差し掛かり、しかも1人少なかったからだ」と続けた。
あくまでも戦術的な判断であることを強調し、自分の判断を弁護した。勝利に向けて選手を代えたり、システムを変えたりする決断は、たとえサポーターに嫌われようとも、監督に課せられた仕事なのだ。
しかし、ペレス会長は承服せずに言った。
「レアル・マドリードでは、そんな理由は通用しない。スペクタクルを提供しなければならない。ファンはスペクタクルを求めている」
もちろん、誰もがスペクタクルが好きだし、優れた選手のプレーを見たい。しかし、クオリティーの高い選手をピッチに送れば、チームとなり、結果を残せるわけではない。高いクオリティーを有した選手が力を発揮するためには彼らを支える選手が必要なのだ。例えば、走り続ける覚悟のある選手とスペクタクルを生み出せる選手を組み合わせてバランスを取らなければいけない。
時間の経過と共に、ペレス会長と采配について話し合わなければ、レアル・マドリードでの監督を続けられたかもしれないと思うようになった。しっかりとした会談の場を設定せずに話す内容ではなかったと今では悔いてもいる。
興奮状態にある試合直後ではなく、別の機会に話すべきだった(翌12月4日に解任)。
時間があれば、遂行したかった仕事を成し遂げられたと思う。
しかし、時間がなかった。
結局、私は時間に負けたのだ。