ウイリアム・スティル
スタッド・ドゥ・ランス:2022-23〜現在
いくつの頃だとしも、「30歳でリーグ1の監督になる」なんて言っている自分に会ったら、『顔を殴られたほうがいい」と自身にアドバイスしたでしょう。
それくらい現実味のない話なのです。
30歳になったら、ネイマール、キリアン・エムバペ、セルヒオ・ラモス、マルコ・ヴェッラッティらを擁するパリ・サンジェルマン(以下、PSG)と対戦するチームを率い、クリストフ・ガルティエ監督(1966年8月23日 生まれ)と反対側のベンチに座ると考えていたならば、それは狂気の沙汰と言うべきでしょう(スティルは1992年10月14日生まれ)。
時として人生はクレイジーになり得るものですが……。
私は、自分が達成するかもしれないことに境界線や制限を設けたことはありませんが、具体的な目標を設定したこともありません。コーチの世界に入った時も、特定の年齢までにフランスのトップクラスの監督になると決めていたわけではありません。
私は目標を設定するタイプではありません。私にとって重要なのは、今やっていることを楽しむこと。今を大切にするようにしています。
先のことをあまり考えていないため、具体的な瞬間や成果に自分でも驚くことがあります。今までのキャリアでもそういう瞬間は何度かありました。
1つは、スタッド・ドゥ・ランスから初めて電話を受けたときです。
「オスカル・ガルシアを監督に任命したばかりだが、しばらく前から君のことを調べていた」
ゼネラルダイレクターはそう言うと続けました。
「話を聞きに来ないか?」
「『リーグ1』(フランス・リーグ1部)でアシスタントヘッドコーチを務めることになりました。28歳の時です」
信じられませんでした。ランスが私のことを知っていること、ましてやコーチとしての足跡を追跡していたなんて……。非現実的な感じしかしませんでした。
私が生まれ育ったベルギー以外で私は完全に無名だと思っていましたし、フランスでキャリアを積んだこともありませんでした。ベルギーに住んでいると、自分はとても小さく、自己完結しているように感じるのです。
ランスに行くと、「オスカルのアシスタントにならないか?」と誘われました。
GMは「私のトレーニング・セッションが好きだ」と言ってくれました。私が知らない時に何度かセッションを視察しており、「私が多くのエネルギーを注いでいること」、「選手から信頼を得ていること」などを高く評価してくれたそうです。「ビデオ解析や試合の準備に長けたアシスタントはすでにいるが、芝生の上で手伝ってくれる人が必要だ」とも付け加えてくれました。
迷うことなく、オファーを受諾しました(2021年7月1日)。
世界でもトップクラスのチームと対戦できる『リーグ1』(フランス・リーグ1部)でアシスタントヘッドコーチを務めることになりました。28歳の時です。
PSG、マルセイユ、リヨン、その他多くの有力チームとコーチとして対戦することになりました。対戦相手は私にとって夢のようなチームばかりです。
ベルギーで過ごした10代の頃、選手としての成功は諦めました。それを思えば、予想外の高みに到達できたと感慨に浸っていました。
私の両親は英国人ですが、人生の大半を過ごしたのはベルギー。18歳の時にイングランドの大学に進み、サッカーにはプレーだけでなく、もっとたくさんの要素があると知ったのです。コーチング、分析、スカウティング、フィジオセラピー、身体の準備−−。
同時に私は、プレーに次いで私にフィットするのはコーチングだと感じました。プレーするときに放出されるアドレナリンに最も近いものを感じたからです。
「答えは『ノー』に次ぐ『ノー』。次から次へとドアが閉まり、私の前に立ちはだかりました」
本格的なコーチを初めて経験したのはプレストン・ノース・エンド(イングランド)のアカデミーでした(2011-12シーズン)。彼らのトレーニングに関われたことはとても素晴らしい思い出です。以前、ベルギーで兄と一緒にコーチを経験していましたが、レベルが遥かに違いました。
「素晴らしい選手ばかりだ!」と感じたのを今でも覚えています。そして自分がやりたいことは「コーチングだ!」と確信しました。
大学を卒業してベルギーに戻ると、プロの現場で経験を積みたいと思いました。それこそ、ドアをノックして回りました。ベルギーのサッカー関係者の住所を調べて会いに行ったのです。
「私は若く、誰でもない」
自分でも分かっていました。
しかし、「プレストンでの経験もあるし、大学での専門知識もあります。どんな形であれ、何かお役に立てることはないでしょうか?」と聞き続けました。
しかし、答えは「ノー」に次ぐ「ノー」。次から次へとドアが閉まり、私の前に立ちはだかりました。
「2週間後に電話する」と言ってくれた人もいましたが、電話が鳴ったことはありません。私は希望を失いかけていました。
そんな時、1人のコーチが私のためにドアを開けてくれたのです。ベルギーの2部リーグに所属していたシント=トロイデンを指揮するヤニック・フェレラ(1980年9月24日生まれ)という若手ベルギー人監督でした。
シント=トロイデンは、私がユース時代を過ごしたクラブ。古巣には戻りたくないという思いがあったため、訪問リストの最後に書き込んでいたのです。しかし行く場所のなかった私はとにかくチャンスが欲しいと、訪ねたのです。
「試合を撮影できるか?」
ヤニックは私にそう聞きました。
「監督解任の発表直後、クラブのマジェド・サミーから電話があり、彼は言うのです。『君がやるんだ』」
「ええ、できますよ」と私は返答しました。
「ビデオを編集できるか?」という問いにも「はい。編集できます」と応じると、「明日、リーグ戦の初戦で対戦する相手が練習試合を行なう。試合会場に行って撮影して編集し、2日後にフィードバックしてくれ」とオーダーされたのです。
私は会場に行って撮影しました。
自分の力を証明したいという思いでいっぱいでした。何度見返したか分からないほど、撮影した試合を丁寧に編集しました。一見すると何も起きていないようなピッチで発生している事象をヤニックに見せたいという一心で作業に没頭しました。
編集した映像を見たヤニックは言いました。
「こんなのバカげてる。やりすぎだ!」
厳しい言葉とは対照的に、彼は出来栄えを明らかに気に入っていました。そして「シント=トロイデンで無給の見習いをしないか?」と言ってくれたのです。
2014-15シーズンの当初は、ビデオ解析がメインでしたが、芝生の上で過ごす時間が徐々に多くなっていきます。そして正式には何も言われないまま、彼のアシスタント的な存在になったのです。
セットプレーのオーガナイズをしたり、『ロンド』を指導したり、パス練習を組んでみたり、としているうちにどんどんトレーニングを組むことに没頭していきました。
「『どんな気持ちだったか?』。いきなりの監督就任ですから、てんてこ舞いでした」
すべてはヤニックのおかげ。彼がいたからこそ、次のチャンスを得られるスタート地点に立てたのです。
2015-16シーズンからリールセSK(ベルギー・リーグ2部)の一員となり、2017-18シーズンからアシスタントコーチに就任。苦しい戦いが続く中、フレデリック・ヴァンデルエスト監督が解任されました(2017年9月6日)。
監督解任の発表直後、クラブのマジェド・サミーから電話があり、彼は言うのです。
「君がやるんだ」
「何の話ですか?」と応じるのがやっとでした。
「明日から君が監督だ。君が指揮するんだ」
オーナーの口調は断固たるものでした。
当時、クラブには私より遥かに経験豊富な指導者が在籍していましたから、その人たちを監督に据えるべきと私は考えて言いました。
「とてもありがたいオファーですが、遠慮します」
しかし彼は考えを変えませんでした。
「いや、ほかの人間を監督にする気はない。君がリストのトップだ。君はいいアイディアをたくさん持っているし、実行もできる」
私に選択権はありません。こうして私は、25歳になる8日前に暫定監督となり、2017年10月12日からはベルギーの2部リーグで正式な監督となったのです。
「『フットボール・マネージャー』が私の実生活に影響を与えたと考えたことはありませんでしたが、今思えば、影響を受けていました」
「どんな気持ちだったか?」
いきなりの監督就任ですから、てんてこ舞いでした。
それでも、チームと選手はよくやってくれました。私が着任した時には「ボトム2」でしたが、どうにか順位を上げられました。
監督になったことで私の世界はひっくり返るように変わりました。まったく無名の存在だった私が、突然、少なくとも地元では名の知れた存在になったのです。そして知らない人から声を掛けられたり、ニュースやテレビで自分を見かけたりするようになったのです。
実は、プロチームの監督になった時も、ビデオゲームの『フットボール・マネージャー』でいろいろ試していました。
『フットボール・マネージャー』が私の実生活に影響を与えたと考えたことはありませんでしたが、今思えば、影響を受けていました。子供の頃から夢中になり、ゲームをプレーすることで「将来、タッチライン際でコーチすることになる私の心」に火がついたのでしょう。
幼い頃から夢中でした。『プレイステーション』を買ってもらえなかったので、家にあるPCでフットボール・マネージャーをプレーしていたのです。
チーム作り、チーム選び、トレーニング計画、チームが正しい方向に向かっているかどうか、細部に至るまでこだわりました。たとえそれがバーチャルなものであっても、当時の私にはそれしかありません。そして監督となった私は、現実の世界で行なっています。
シント=トロイデン時代には、ゲームの中でもリーグ優勝を目指していました。
しかし、現実の世界でキャリアを積んでいく中、ゲームに没頭できる時間は減少。ランスでは、本当に忙しい日々を過ごしました。
「『フットボール・マネージャー』のバグと同じで、ヘッドコーチとしてもう一度チャンスが欲しかったんだ。
リールセSKで監督を務めたあと、2021年にベルギー1部リーグのベルスホトVAで短期間ながら監督を務め(2021年1月19日~6月30日)、そこそこの結果を残しました。
中位でシーズンを終えたのですが、オフシーズンに新しい監督の招聘が決定。選手たちとはそれなりの関係ができていたので、アシスタントに戻るのは得策ではないと判断しました。退団を決意すると、スタッド・ドゥ・ランス行きの話が届きました。
オスカル・ガルシア監督のアシスタントを務め、素晴らしい経験を積めました。しかし私は、シーズン途中(2021年10月6日)にチームから離脱し、指導者ライセンスを取得するためにベルギーに戻らなければなりませんでした。
ただし、指導者研修後はスタッド・ドゥ・ランスにアシスタントコーチとして復帰する契約を結んでしました(2022年7月1日に復帰)。
フランスに戻って3カ月後、予想外のことが起こります。
電話口のオーナーが言うのです。
「オスカルはチームを去る。私は君に監督になってほしい。後任を務めるという契約条項があるから、君は断れない」
選択肢は多くありませんでしたし、熟考する時間もありませんでした。
『フットボール・マネージャー』で遭遇するバグのように私はもう一度、監督になりたいと考えていました。しかし、先ほども言いましたが、私はキャリアパスを計画するタイプではありません。スタッド・ドゥ・ランスの監督になる、そんな考えを持ったことはありませんでした。特に当時は……。
しかし、2022年10月、カタール・ワールドカップまでの仕事を引き受けました。大会までの6試合でできるだけ多くの勝ち点を取る、それが私の任務。そして暫定任期終了後、その後のことは考えることになりました。
「『リーグ1の監督になった』と達成感に浸る暇もありませんでした」
スタッド・ドゥ・ランスの監督就任も私にとっては驚きの瞬間。しかもあらゆることが急速に進み、処理すべきことも多かったため、暫定監督ではありましたが、「リーグ1の監督になった」と達成感に浸る暇もありませんでした。
オーナーの電話から3日後はPSGとの試合(10月9日)。メガクラブとの試合に向けて準備してきた選手と共にピッチにいました。
ピッチに向かう通路ですれ違うのはムバッペ、ヴェッラッティ、ジャンルイジ・ドンナルンマ、マルキーニョス、セルヒオ・ラモス、ダニーロ・ペレイラなど、スターばかり。まさにクレイジーな状況でした(下写真)。
しかし、誤解しないでください。名だたるスター選手に対して畏怖の念をただ抱いていたわけではありません。
PSG戦に向けた1週間は信じられないようなストレスの多い日々を送っていたのです。私の心のどこかには「0-6にされないことを祈るだけだ」という弱気な思いもありました。PSGのようなチームとの対戦では、惨敗の恐怖と隣合わせなのです。
試合が近づくと、変な緊張感から解放されるのを感じました。選手たちがウオームアップを始めると、監督としてのスイッチのようなものが入りました。言葉で説明するのはとても難しいのですが、緊張が解け、信じられないほど集中力が高まりました。試合中の私がやるべきことを思い出しました。
リオネル・メッシはミッドウィークのUEFAチャンピオンズリーグの試合で負傷いたために欠場し、ガルティエ監督はネイマールとアチャフ・ハキミをベンチに温存。それでも恐るべき戦力を持ったチームであることには変わりないのですが、わずか希望を与えられたような気がしました(下写真)。
選手たちはゲームプランを見事に実行し、スコアレスのドローに持ち込んでくれました。ネイマールとハキミが途中から出てきましたが、得点を許しませんでした。
PSGが得点を奪えなかったのは2022-23シーズンで初めてのこと。前シーズンの3月以来、我々は初めてPSG戦でクリーンシートを達成したのです。船出をいい結果で飾れ、信じられないような気分でした。
クラブの雰囲気は変わり始め、良い流れになっていきました。
「トレーニング・シューズを履いて26人のサッカー選手、そして3袋のボールと一緒に芝生の上で過ごせるなら私は幸せ」
私が就任した当時の成績は9試合で1勝4分け4敗。下位に低迷していました。
しかしワールドカップで中断するまでの6試合は無敗。2勝4分けとしてランクも11位まで上がりました。クラブのフロントは喜んでくれましたし、クラブの雰囲気が良くなったため、「暫定」の文字が取れました。本当の意味で、リーグ1のクラブで指揮を執ることができるようになったのです。
これほど嬉しいことはありません。
監督の仕事はハードですし、プレッシャーは尋常ではない。しかも常に人目にさらされてリラックスできません。しかし私はそういうことを脇に置き、自分の仕事に集中できています。
私は監督になってスポットライトを浴びたり、耳目を集めたりするのはまったく好きではありません。私はあまり外向的ではないのです。知り合った人たちとはオープンになり、リラックスできるのですが、注目されたいと思うタイプではありません。
「私の中の幼い私が『ウエストハムの監督になる夢を持ち続けろ』と言うのです」
それでも日々、トレーニング・シューズを履いて26人のサッカー選手(彼らは本当に本当にうまい!)、そして3袋のボールと一緒に芝生の上で過ごせるなら私は幸せ。無給でもやっていたのですから、仕事にできるのは本当に夢のような話です。
指導者として満足感を得られた出来事はたくさんあります。私の場合は特に、「みんなで何かを作り上げる」、「グループで取り組み、それを実行して結果を出す」という感覚が最高なのです。今のチームに最高のプレーヤーがいるわけではありませんが、グループとして何か特別なものを作り上げることができています。
繰り返しになりますが、自分のキャリアを計画するタイプではありません。この先も、与えられた仕事を懸命にこなしていくだけでしょう。
でも、『フットボール・マネージャー』の中で世界最高の監督になり、すべてを勝ち取るために何時間も費やした私の中の幼い私が「ウエストハムの監督になる夢を持ち続けろ」と言うのです。ウエストハムの大ファンである私にとって、それは本当に夢なのです。
もちろん、夢に到達するまでにはまだまだ歩むべき道があります。やるべきこともたくさんあります。現実の世界でいろいろと実現しなければなりません。
しかし、挑戦する準備はできています。
翻訳:The Coaches’ Voice JAPAN編集部