シャビ・エルナンデス
バルセロナ監督, 2021-現在
私は、故ヨハン・クライフ(1988-1996シーズン、FCバルセロナを指揮。2016年3月24日没)の晩年、彼の近くで過ごせる幸運に恵まれました(シャビは1991年にFCバルセロナの育成部門に加入)。
常に思い出す彼の言葉があります。
「シャビ、偉大なフットボーラーになるための最短ルートは指導を学ぶことだ」
その後、私は戦術の虜となり、コーチング・ライセンス取得に向けた準備を開始します。
私は、FCバルセロナ(以下、バルサ)のアカデミー、そしてトップチームで過ごした日々を通じ、多くの監督からさまざまなことを学んできました。
そして現在、自分のサッカーに対するアイディアをさまざまな形で整理できました。ですから、「これが私のゲーム・モデル」であり、「これこそが良いプレーを可能にし、我々を成功へと導く正しい道である」と選手たちに伝え、納得させることができるのです。
選手時代、私にとって重要な3人の監督と出会うことができました。この邂逅さえもクライフの成功によって導かれたものだと考えています。
フランク・ライカールト(2003-08シーズン、FCバルセロナを指揮)は、クラブの変革期にやってきました。
彼を連れてきたのは2003年の夏に行なわれた会長選挙で勝利したジョアン・ラポルタです。フランクには素晴らしい部分がたくさんありますが、まず言及しなければいけないのは人間性の素晴らしさです。
彼は、「寄り添ってくれている」と常に感じさせてくれる人でした。
スペイン代表を率いたビセンテ・デル・ボスケに似ている気もします。
「ビッグクラブのロッカールームをコントロールするのは簡単なことではありません。しかし、フランクは完璧にコントロールしたのです」
選手は彼のことを『ミスター・コンセンサス』と呼んでいました。このニックネームは、「彼が言うべきことを言い、要求する人間だった」という事実と矛盾するわけではありません。彼は、常に「イケてる男」だったのです。
彼は、最後まで選手と素晴らしい関係を築いていましたし、同時に良い人間であり続け、グループを団結させ、強くさせてもくれました。
最初の数ヶ月、フランクは苦難続きの日々を過ごしたと思います。
期待されていた結果をチームは残せず、「FCバルセロナの監督にふさわしいのか?」と資質を疑われていたのです。周囲の人間から、状況を改善できなければ、すぐに出ていくことになるだろうと言われるほどの苦境に陥っていたのです。
しかし、チームは団結していましたし、フランクも輪の中にいました。
「全てを出し尽くそう。チームのため、そしてライカールトのために。私たちは彼と一緒に仕事を続けたいんだ」。そんな雰囲気がロッカールームには満ちていたのです。
フランクは偉大な選手をコントロールする術に長けていました。当時のチームには、ロナウジーニョ、デコ、サミュエル・エトー、ラファエル・マルケスだけなく、ビクトール・バルデスやカルレス・プジョルもいました。個性的な選手が集うロッカールームだったにもかかわらず、彼は自然に、しかも完璧にコントロールしていたのです。
ペップ(ジョゼップ)・グラウディオラ(2008-12シーズン、FCバルセロナを指揮)が監督に就任した当時、やはりチームは厳しい状況に置かれていました。
過去2年間、主要タイトルから見放されていたのです。FCバルセロナのようなクラブにとっては決して許されない事態です。
私とペップは選手時代からの知り合いであり、数シーズン、チームメイトとしてプレーしました。
ですから彼が監督に就任すると聞いたとき、一言も話していないのに、状況が好転すると確信できました。クラブがペップとサインしたのは正しい決断でした。
「お前のいないチームは想像できない」という彼の言葉を100パーセント信じることができました。
ペップは現役時代から、自分自身に対してはもちろん、周囲の人間に対しても高いものを要求し、些細なことも妥協しない人物でした。それを知っていた私は、監督になっても彼は高い要求を選手に課し、多くの事を伝えてくれるだろうと想像したのです。
初めてペップと話し合いの場を持ったのは、監督就任後のプレーシーズンでのことでした。
スペイン代表の一員としてEURO2008(スペイン代表は優勝)を戦ったため、チーム合流を少し遅らせ、ゆっくり休みたいという思いも私にはありました。しかしペップは、チームの始動日から全選手が揃い、落ち着いて働ける環境を求めたのです。
当時の私は、ファンタスティックなEUROを過ごし、大会の最優秀選手を手にしていました。本来であれば、充実した気持ちでチームに合流できるはずだったのですが、実は、「FCバルセロナでの将来」に疑問を抱いていたのです。
スポーツダイレクターのチキ・ベギリスタインは私をチームに必要な選手と考えておらず、放出を画策しているという噂を耳にしていたからです。
ペップと向き合ったとき、「私に対する考え」や「チームにとって重要な存在なのか?」ということを私は聞きました。
彼の答えは非常に明確でした。「お前なしのチームは想像できない」と言ってくれたのです。一言で問題解決。その日以降、安心してチームのことに集中できました。
そもそも、バルサを離れたいと思ったことさえありませんでしたが、ペップの言葉を聞いてからは「バルサと共に戦いたい」という思いをより一層強くしました。
「このチームは偉大なことを成し遂げるという感覚を持っていました」
私は、彼のやることに100パーセント納得していました。それでも、ペドロ・ロドリゲスやセルヒオ・ブスケッツなど、経験の浅い選手をトップチームに引き上げることには驚きました。
ペップは、現役時代に得た数々のものとFCバルセロナBを率いた時に見いだした才能を加えてチームを生まれ変わらせようとしました。実際、B時代を共に戦った選手たちは十分なパフォーマンスを発揮できると信じ、彼らにトップへの道を開いたのです。
決断の正しさはすぐに証明されました。
彼らは才能に恵まれていました。ブスケツは、常に顔を上げた姿勢でプレーし、ボールを適切に動かせ、しかもボールを失わなかった。ペドロにしても、スペースを突いたり、ボールを受けたりするタイミングが素晴らしく、しかもサポートも巧みだった。彼らは、後にアカデミーから巣立つ選手たちと同じく、ペップから学んで成長した選手たちだったのです。
シーズンが開幕すると、ホームでのオープニング・ゲームでヌマンシアに敗れ、次の試合ではラシン・サンタンデールとドロー。しかし、このチームは偉大なことを成し遂げるという感覚は不変でした。
「ペップとの最も特別な瞬間はローマで開催されたマンチェスター・ユナイテッドとのチャンピオンズリーグ決勝です」
ペップの掲げるゲーム・モデルを実現するため、ハードルの高いトレーニングを我々は課せられました。しかしそうした経験は、「バルサがスペクタルなチームになる」ことを予感させたのです。
ただし、予想さえし得なかったことがあります。それは、シーズン終了後に6つものタイトルを獲得することです。
当時のバルサにとってタイトル獲得はもちろん重要。しかし、それ以上に重要だったのは「勝ち方」でした。その点、我々は本当に美しいプレーでタイトルを獲得しました。
ペップとは数々の素晴らしい瞬間を共有しましたが、私にとって最も素晴らしい時間は2009年にローマで開催されたマンチェスター・ユナイテッドとのチャンピオンズリーグ決勝です。クリスティアーノ・ロナウドを筆頭に、素晴らしい選手を擁するチームに立ち向かいました。
試合の序盤こそ、クリスティアーノに苦しめられました。しかし時間と共に我々は落ち着きを取り戻し、パスをつないで相手を圧倒していきます。心の底から試合を楽しめました(2-0の勝利)。
そしてルイス・エンリケの下でも同じ感覚を抱くことになります。
2014-15シーズンが始まる前から、シーズン後にはバルサから離れることを私は決めていました。ジョセップ・マリマ・バルトメウ会長、スポーツダイレクターのアンドニ・スビサレッタ、そしてルイス・エンリケ監督にも自分の決意をすでに伝えていました。
その後、彼らと会談し、MLSのニューヨーク・シティFCと個人的に合意に達したこと(のちに破談)、2014年12月を最後にクラブから離れたいという思いを伝えたのです。
「スター選手が一つとなり、全てのタイトルをキャプテンとして掲げてサポーターに別れを告げることができたのです。」
最初の思い通り進んでいれば、12月までプレーしてサポーターに別れを告げるはずでした。しかし、三者会談の場で、ルイスから「シーズン終了までプレーしてほしい」と伝えられました。
さらに続けられた彼の言葉に納得させられました。
彼は、「ゼロからの競争」を強調し、全試合に出場することを確約するわけでもない、とも言っていました。ルイスの言葉には嘘がなく、極めて明確。真実を口にしてくれることをとても光栄に感じたのです。
会談終了後の私は、グアルディオラ時代のスタート時と同じ感覚に包まれていました。
「全てうまくいく」。周囲の人にそう伝えたのを覚えています。
信じられないほど素晴らしいシーズンを過ごせました。スター選手が一つになり、リーガと国王杯で優勝し、ベルリンではチャンピオンズリーグを制覇――。キャプテンとして全てのタイトルを掲げてサポーターに別れを告げることができたのです。
当時の私は、ピッチ上では以前ほど重要な選手ではありませんでした。しかしロッカールームの内外では、フランクやペップの時と同じように大切な役割を果たせたと思っています。
3冠を達成したシーズンに大きく貢献できたと思うのです。
私は、FCバルセロナで得た全ての経験を胸に、フットボール選手としてのキャリアを締めくくるクラブ、アル・サッド(カタール)へ向かいました。新しい環境に飛び込み、新しい競争、新しい仲間と共に成長する最後のステップでした。
そしてアル・サッドは、監督としての第一歩を踏み出すクラブになります。
「偉大なフットボーラーに近づくための最短ルートは指導を学ぶことだ」。ヨハン、あなたは正しかった。
アル・サッドは、監督としての素晴らしい第一歩を踏み出させてくれました。
多くのこと学び、トライし、吸収し、糧にできたのがアル・サッドです。
経験のない私を信じ、監督を任せてくれたアル・サッドという偉大なクラブに心から感謝しています。
簡単なことなど一つもなかったアル・サッドでの日々を通じて「偉大なフットボーラーに近づくための最短ルートは指導を学ぶことだ」というヨハンの言葉を本当の意味で理解できました。
「サッカーを愛し、楽しむ」。
これこそが私のDNAです。
翻訳:石川 桂