ズラトコ・ダリッチ
クロアチア代表:2017-現在
2017年、クロアチア代表監督としての最初の記者会見(2017年10月7日)で、「もし翌年のワールドカップへの出場権を逃せば、即辞任する」と言ったことを覚えています。
それが、私の素直な気持ちでした。ウクライナ代表とのヨーロッパ予選の最終節(2017年10月9日)を2日後に控えた中での発言でした(ダリッチは1966年10月26日生まれ)。あの試合で負けていたらすべてが終わり。重要な試合でした。
私は自分自身を信じていましたし、何よりもチームを信じていましたから心配はしていませんでした。あの記者会見を通じて、自分がいつもそばにいること、信頼していることを選手に表明したかったのです。私の名声のためでも、契約継続のためでも、お金のためでもなく、シンプルにあの素晴らしいポテンシャルを持った選手たちを助けたかったのです。
国の代表チームを率いることはどんな監督にとっても最大の名誉。契約内容や金銭は私にとって重要ではありませんでした。考えていたのは予選を突破して本大会に出場することだけ。当時の選手たちには大きな大会で偉大な結果を残すにふさわしい実力を備えていると考えていたからです。
オープンなコミュニケーションを選手と図ることにより、チームの中にとてもポジティブな雰囲気をすぐに作り出せました。
サッカー界では、ネガティブな結果が続けば、落ち込み、雰囲気が悪くなるのは当たり前です(前任のアンテ・チャチッチは直近4試合のワールドカップ予選でわずか1勝)。ウクライナとのアウェーゲームを控え、私がチームに必要だと感じたのは前向きで楽観的な思考、そして何よりも自信です。コーチングスタッフが選手を信頼していることを伝え、選手たちが自分の力を最大限発揮できれば、必ず素晴らしい結果を得られると選手に信じてもらえるように努めました。
2日後、ウクライナに2-0と勝利(上写真)。グループIの2位を確保してプレーオフの出場権を得ました(プレーオフでは2試合合計4-1とギリシャを撃破)。そのわずか9カ月後には、我々はクロアチア史上初めてワールドカップの決勝を戦うのです。
「選手たちは、1998年のワールドカップで偉大な結果を残したあの時のクロアチア代表のように多くのサポーターから称賛されることを夢見ていました」
重要な試合でウクライナに勝利することは、我々にとって特別な意味を持っていました。
1998年のフランス・ワールドカップで初出場を果たし、準決勝(●1-2フランス)まで進んだ偉大なクロアチア代表も、重要な試合でウクライナに勝っていました(ヨーロッパ予選のプレーオフで2試合合計3-1とウクライナを撃破)。あの勝利があったからこそ、セミファイナルへの道が切り開かれたのです。特にベテラン選手にとっては1998年のワールドカップを想起させられるカードであり、モチベーションを刺激される重要な試合だったのです。
選手たちは、1998年のワールドカップで偉大な結果を残したあの時のクロアチア代表のように多くのサポーターから称賛されることを夢見ていました。当時のチームは、クロアチアのような小さな国でも偉大な大会で遠くまで到達できることを教えてくれましたし、それが彼らの生きていく上でのモチベーションになっていたのです。
彼らの思いをうまく活用しました。私は常に、選手にもメディアにもこのグループであれば、ロシアでも似たようなことができる、それを本気で信じていると繰り返し、選手たちのメンタルにアプローチしました。
しかしながら、ロシア・ワールドカップに向けた準備がすべて順調に進んだわけではありません。例えば、大会3カ月前のアメリカ合宿でのことです。一部の選手に対して早い帰国を私が許可したことに対し、メディアの論調は批判的でした。
選手は所属クラブから大金をもらい、それに見合う活躍を大事な試合でしなければいけません。選手はプレッシャーに常にさらされているのです。
にもかかわらず、シーズン中の3月に代表活動を実施することをクラブは快く思わないものです。国内リーグやUEFAチャンピオンズリーグをクラブが戦っている最中に親善試合をすることにクラブが難色を示すのは当然でしょう。しかも、あの時のキャンプ地はアメリカ。多くの中心選手にとって理想的な合宿でないことは容易に理解できました。だからこそ私は柔軟に対応し、選手たちが早めに帰国できるように手配したいのです。
もちろん、ワールドカップに向けていい準備をするのが最も大事なこと。中心選手が親善試合の2戦目に出場せず、クラブに戻るのは理想的なシチュエーションとは言えません。しかし、メキシコとの素晴らしい2戦目を通じ、「クロアチア代表に控え選手はいない」というメッセージを伝えられました。代表にふさわしい選手を発掘できたのです。
「若手対ベテランの試合は盛り上がります。競争力があり、魅力的なデュエルがいつも繰り広げられ、選手の間でいい科学変化が生まれていました」
結果的にはすべてがうまくいきました。コミュニケーションをしっかりとれ、お互いを理解できました。そして私が下すすべての決断が、個人の利益のためではなく、チームのためだと分かってもらえました。そうすれば、大きな問題は発生しないものです。
幸運なことにクロアチア代表はいつも雰囲気がいい。もちろん、ヨーロッパ予選のように結果が出なければ、雰囲気が悪くなることだってあります。でも基本的に選手の仲はとても仲がいい。クロアチアのように小さな国では、選手同士が幼い頃からの知り合いなんです。同じクラブでプロキャリアをスタートさせた選手も少なくありません。
代表でプレーすることは選手にとっても最大の名誉。規律面で問題が起きたことはほとんどありません。選手同士の仲が良く、同じ時間を過ごすことを楽しんでいましたから、いい雰囲気が生まれやすかったのだと思います。
キャンプの時には施設内に必ず遊技場を作ります。ダーツや卓球、テーブルフットボールなど、選手が一緒に楽しめるような空間を設けます。
トレーニング内容もできる限り楽しいものになるように心がけています。例えば、若手対ベテランの試合は盛り上がります。競争力があり、魅力的なデュエルがいつも繰り広げられ、選手の間でいい科学変化が生まれていました。
忘れてならないのが、選手と長い時間を過ごす理学療法士、トレーナー、ドクターというスタッフの存在。彼らの中で最も愉快な人物やポジティブな人物を選ぶのが難しいほど、選手と打ち解けた関係を築いてくれています。選手には、このチームには家族的な雰囲気と一体感があると感じてほしいのです。
「カリニッチが代表を去ったことについては多くを語っていませんし、これからも語りません」
ご存じでしょうが、口で言えても、実行できないこともあります。
ロシア・ワールドカップの期間中、我々は本当の家族のように過ごしました。チームビルディングのために何かをする必要さえありませんでした。オープン、かつリラックスしたコミュニケーションと代表への愛が、自然で有機的な素晴らしい化学反応を起こしたのです。もちろん、トレーニングでは常に真剣。しかし、グラウンドの外では常にリラックスしていました。
60日間も一緒にいて、選手やスタッフの間で争い事はまったくありませんでした。50人の男がこれだけ長い時間一緒にいて何も問題が起きないというのはなかなかないことだと思います。
大会を通じて、選手がケガで欠けることは一度もありませんでした。コンディショニングの面で非常に良い準備ができた証。メディカルスタッフの仕事が素晴らしかっただけでなく、選手全員がチームのために自分の体を入念にケアしてくれたのです。成功の重要なピースでした。
大会期間中、ニコラ・カリニッチが代表から離脱しました(第1戦のナイジェリア戦で途中出場を拒否)。
監督キャリアの中でも最も難しい決断を私は迫られました。私は、ニコラの選手としてのクオリティーを評価していましたし、大会を通じてチームに貢献できると信じていたからです。しかしあの時の彼がチームにもたらせるものはないと判断し、決断を下しました。カリニッチが代表を去ったことについては多くを語っていませんし、これからも語りません。
詳細はロッカールームの中だけで済ませるべきだと思うのです。
大会を通じて全選手が非常に重要な存在でした。彼らの知識、経験、フットボール・インテリジェンスを利用しない手はありません。
ロシア大会の代表にはUEFAチャンピオンズリーグの優勝歴を持つ選手が4人もいました。ルカ・モドリッチが4回、マテオ・コバチッチが3回、イバン・ラキティッチとマリオ・マンジュキッチが1回。そしてワールドカップ後には、デヤン・ロヴレンとイヴァン・ペリシッチが優勝を経験します。
「アルゼンチン戦に向けてはリオネル・メッシを抑えるためにラキティッチからもらったアドバイスはとても役に立ちました」
チームには大舞台を経験したことのある国際経験豊かな選手が多数いました。彼らの話を聞くとは至極当然のこと。彼らの意見を聞くだけではなく、対戦相手の短所や長所といった情報も受け取っていました。
例えば、アルゼンチン戦(グループステージの第2戦。〇3-0アルゼンチン)に向けてはリオネル・メッシを抑えるためにラキティッチからもらったアドバイスはとても役に立ちました。ロコモティフ・モスクワでプレーするヴェドラン・チョルルカのロシア代表(準々決勝。〇2-2PK4-3)に対するアドバイスも同じ。最終的な決断を下すのは私の仕事です。誰もがそれを理解してくれていましたが、私は選手の経験や知識をとても重視しました。
クロアチアの誇るスター選手の一人であり、快進撃に貢献して大会最優秀選手に選出されたルカ・モドリッチも経験豊富な選手。ワールドクラスの選手であることを大会で証明し、今でも所属するレアル・マドリードで証明し続けています。
ルカはピッチ上のキーマンであるだけでなく、それ以上にチームのリーダーとして非常に重要な存在でした。
想像してみてください。チームで最高の選手が、誰にも負けない取り組みをトレーニングで見せ、しかも体のケアを怠らず、すべての選手とスタッフをリスペクトし、フットボールに対してプロフェッショナルな姿勢を保っているのです。そのリーダーシップについていかない選手なんているわけがありません。
その上、彼は素晴らしい賞と数々のタイトルを手にしています(上写真)。彼は「チームのためにすべてを捧げる」ことを実践し、向上するために日々、懸命にトレーニングします。だから陳列棚にトロフィーの数々を並べられるのです。あの年齢になっても、まだまだ向上し続けているなんて本当に信じられません(モドリッチは1985年9月9日生まれ)。
ワールドカップ期間中は、「ルカをどう起用すれば最も効果的か」を考えて全試合を分析。結果、攻撃的なポジションに据えて自由を与えたり、ラキティッチと2人で中盤をコントロールしてもらったりしました。
「ルカは本当に素晴らしい選手。常に解決方法を持ち、常に誰よりも先を読んでいます」
ルカは本当に素晴らしい選手。常に解決方法を持ち、常に誰よりも先を読んでいます。素晴らしいボール・コントロール、技術、広い視野、パス能力といったすべて面で秀でていますが、彼のフットボール・インテリジェンスは群を抜いて素晴らしい。彼は、チームにとって代え難い存在。なぜなら、彼はほかの選手を最高の選手に成長させてくれるからです。
ワールドカップでは目の前に試合に集中するようにしました。対戦相手の特徴はまったく異なるからです。そして目の前の試合を乗り越えると、次の試合の準備をすぐに始めます。次の目的地に向かう飛行機の中で準備を開始したこともあります。
いつも意識していたのは、自分たちの長所を発揮しながら相手の特徴を消すこと。すべての試合が思い通りに進んだわけではありません。決勝トーナメントではすべての試合で先制点を許しています。デンマーク(1回戦。1-1PK3-2)、ロシア、イングランド(延長2-1。下写真)、フランス……。
フランスとの決勝以外は、逆転かPK戦での勝利(●2-4フランス)。試合のシナリオを決めることは誰にもできません。しかし、フィジカル面、戦術面、そして心理面においていかなるシナリオにも対応できるように準備するのは可能です。
大会では、2回のPK戦(デンマーク戦とロシア戦)に勝利しました。「PKは時の運」と言う人も多いですが、幸運は努力で勝ち取るものだと思います。
その点、ルカほど努力を惜しまない選手はいません。デンマーク戦とロシア戦で決めた2つのPKは彼にふさわしい幸運でした(デンマーク戦はど真ん中、ロシア戦ではGKに触られた)。PKの練習をどれだけ積んでも、相手GKをどれだけ分析した選手であっても、PKを外すことはあり得ます。選手のキャラクターや落ち着きが影響しますし、少しの運に左右されることもあるからです。
「モドリッチとラキティッチもPKで失敗しています。ロシアでは当時の経験を活かせたのではないか、と考えています」
クロアチアのGKダニエル・スバシッチはデンマーク戦とロシア戦に向けて相手選手のPKをつぶさに分析していました。しかし、止められるかどうかは終わってみなければ分かりません。
クロアチアは、EURO2008(オーストリアとスイスの共催)の準々決勝、トルコとの試合をPK戦の末に落としました(1-1PK1-3)。モドリッチとラキティッチもPKで失敗しています。ロシアでは当時の経験を活かせたのではないか、と考えています。もしくはフットボールの神様が、彼らに何かを返してくれたのかもしれません。
PK戦の結果にはいろいろな要素が絡み合いますが、2試合とも勇気を持って戦い、勝つことができてとても嬉しく思っています。私は、選手たちの決断と実行にすべて任せるようにしています。
決勝に向けてモチベーションをかき立てる必要はありません。むしろ、地に足をつけ、最大限リラックスさせるように努めました。
メディアの煽り、世界中の友人から届くチケットのリクエスト、試合ごとに遭遇する非現実的なセレブレーション、そして何度も延長戦を戦ったことが選手たちを心理的にもフィジカル的にもとても疲弊させていました。だからこそ私たちはとにかく選手をリラックスさせ、我々自身も次の試合に集中するように努めました。
大会を思い返せば、私たちが素晴らしいチームだったと思いますが、ほかの代表も素晴らしいクオリティーを有していました。
我々にとって成功の鍵は、チームの一体感、団結力、家族のような関係、そしてどんな困難も乗り越えられるという信念でした。
だからこそ、この特別なチームの監督であることを誇りに思います。
翻訳:石川桂